うつむいたままでいると、彼は私と目線を合わせるようにしゃがんだ。
「俺は乃愛だから頼んだ。
……乃愛じゃなきゃ、ダメなんだよ」
「私、だから……?」
「あぁ」
そっと顔を上げれば、綺麗で真剣な瞳と目が合って。
「約束する。俺は乃愛が男嫌いを治すのに協力するし、彼女のフリをしてもらうとはいえ、嫌がることはしない」
優しくそう言われたあと。
立ち上がった黒崎先輩に、目を細めて見据えられた。
「どーする。約束はするけど、降りるなら今だぞ」
「へ……っ」
「俺たちが嘘恋ゲームを本格的に始めれば、周りは別れた時にうるさくなる。それに、周りの心無い言動で傷つくのだってあんただろ」
その通り、だと思う。
黒崎先輩はモテるから、私みたいなのが彼女だと、きっと批判を浴びる。
そして、その批判は──絶対、私に向く。
……黒崎先輩の言う通りだよ? 乃愛。
今降りれば、『黒崎先輩に遊ばれただけでした』で済む。
私はそこまで傷つかずに、学校生活を送れる。
──『男の子恐怖症を治して、素敵な人と恋愛したい』──
私がずっと抱いてた夢だよ?
降りた方が絶対に、穏やかな高校生活を続けられるよ?
悪い先輩の嘘カノよりも、ずっと幸せな未来が、きっと待ってるよ?
自分に何度も問いかけるけど、──もう答えは決まってた。
「嘘恋ゲーム、させてくださいっ」
フッと、黒崎先輩が笑った。
「いーんだな? もう後戻りできねーけど」
「はいっ」
濡羽色の瞳を見つめ返して、大きく頷く。
赤い唇が、妖しく弧を描いた。
「よろしく。嘘カノちゃん」
──これがたぶん、始まりだった。
甘くて熱くて、苦くて冷たい、恋の始まり。
