あぁ、そっか。あまりに大切すぎるものは、表に出せないんだ。だから今まで一度もここに足を運ばなかったし、お父さんとの思い出もほとんど語ってこなかった。壊れてしまわないように、心の一番奥で大切に大切にしてきたものだから。

 桔平くんが泣けない理由。自分の絵を描けない理由。それが全部、この場所に詰め込まれている気がした。

「少し歩くよ」
「うん」

 いつものように、左手を差し出してくれた。
 絵筆を巧みに操って、美しい世界を生み出す繊細な手。私なんかがこの手を握っていいのかなって、今まで何度も思った。
 でも桔平くんが預けてくれるのなら、私は絶対にこの左手を離したくない。どんな道だって、手を繋いで一緒に歩いていくって決めたんだもん。

「ガキの頃のままだな……」

 独り言のように呟く桔平くん。そのまま、会話もせずに歩き続けた。

 風の中に、潮と緑の香りが混ざっている。なんて豊かなところなんだろう。歩いているだけで、何故か涙が滲んできた。
 赤い前掛けをした小さなお地蔵さん。綺麗に剪定された生垣がある古い家。車もほとんど通らない狭い路地。ここが、桔平くんの生まれ育った街なんだ。そう思うだけで胸がいっぱいになる。

 細い道をずっと歩いて、駅から北へ10分ほど行ったところで、桔平くんが立ち止まった。

「ここ?」
「うん、ここ」
 
 目の前にあるのは、広いお庭のある立派な平屋。長らく人が住んでいないからなのか、とても静謐な空気を纏っていて、まるでここだけ外の世界から切り離されているみたい。
 
「全然……変わってねぇや」

 桔平くんの表情は、やっぱりいつもと同じ。だけど言葉では表現できない感情が、繋いだ手から流れ込んでくるように感じた。ここで過ごした思い出を、ゆっくり紐解いているのかな。

 なんだか不思議な感じ。初めて来た場所なのに、どことなく懐かしい。桔平くんが小樽の景色に惹かれたのと、同じような感覚なのかな。

 少し湿気を含んだ風が吹いて、木々を揺らす。
 
「あ!あそこ、見て」

 庭の隅にあるものを見つけて、私は思わず声を上げた。そして桔平くんの手を引いて、その場所へ近づく。
 まったく荒れていない、綺麗に管理されたお庭の中で、吸い寄せられるような引力を放つもの。その力強さに、目を奪われる。

「桔平くん、これ……」

 顔を見上げて、言葉に詰まった。
 それまでまったく表情を変えていなかったのに。普段通りの様子だったのに。

「まだ……あったんだな……」

 そう呟く桔平くんの頬は、濡れていた。