美術館を出た後は、いろいろと道を教わりながら渋谷駅まで戻って電車に乗った。荻窪までは20分ちょっと。浅尾さんは高円寺では降りずに、一緒に荻窪駅の改札を出た。
 
「本当は、家まで送っていきたいんだけどね」

 残念そうな顔で浅尾さんが言う。私がまだ警戒していると思ってるんだろうな。

「まだこんなに明るいから、大丈夫だよ」
「あのさ。いっこ、お願いがあるんだけど」
「なに?」
「名前で呼んでくんない?」
「え、名前?」
「いつまでも“浅尾さん”じゃ、なんかすげぇ距離感じるじゃん。愛茉に名前で呼ばれたい」

 その声で呼び捨てにされるだけで、鼓動が速まった。
 名前で呼ぶって、呼び捨てで?いや、それは無理。さすがに呼び捨ては無理。じゃあ“桔平さん”?それも違うのかな。

 どうしよう、めちゃくちゃ見てくる。期待に満ちた目で。
 呼び捨てじゃなくて、さん付けでもなくて。だとしたら、やっぱり……。
 
「き……桔平……くん」

 ものすごく勇気を出して言ったのに。浅尾さんは感情のない顔で見つめてくるだけ。もう、何か言ってよ……。
 
「……やべぇ」

 浅尾さんが少し視線を外して呟いた。

「思ったより破壊力あったわ」

 手で口元を隠して、照れているように見える。
 何これ。ムズムズする。ていうか、ここで照れるのはずるい。自分で言ったくせに。
 
「すっげぇ離れ難いんだけど、何時間一緒にいても同じだろうな」

 また私の目を見て、浅尾さんが言う。
 本当は、同じ気持ち。私もそうだよって言いたい。でも、言えなくて。口を開いたら本音が漏れてしまいそうだから、唇を軽く噛み締めた。

 何も言わない私に、浅尾さんはただ優しく微笑んでくれる。

「また連絡するから。学校の課題があって、すぐは無理かもしんねぇけど、待ってて」
「うん」
「じゃ、気をつけて帰りなよ」
「浅尾さ……き、桔平くんも、気をつけてね」
 
 名前を呼ぶだけで、胸が締めつけられる。
 徒歩で帰るからと、桔平くんは私の家と反対の方向へと歩いていく。

 こっち見てくれないかな。そう思いながら後ろ姿を見つめていたら、桔平くんが振り返った。そして右手を上げて、笑顔を見せてくれる。
 私も手を振って、速まる鼓動を誤魔化すために家路を急いだ。