「……絵の方は、どう?」
「まだまだ、だな」

 何気なく答えると、母は目を丸くしてティーカップを持ったまま固まっている。
 
「……何?」
「瑛士さんも、いつもそう言ってた」

 父の名前を口にした途端、その顔が少女のような瑞々しさを見せた。
 
「納得のいく絵は描けた?って訊いたら、今の桔平と同じような顔をして“まだまだだな”って。本当に、そっくりね」

 もしかすると、今でも父のことを想っているのかもしれない。

 母が抱える寂しさに、オレは向き合ったことがあったのだろうか。ただ自分のことで精一杯だったように思う。

 父が死んで泣き崩れていた姿。映像だけはしっかり記憶に残っているのに、その時の自分の感情を、いつの間にかどこかへ置いてきてしまった。

「……オレが今でも絵を描き続けられるのは、母さんのおかげだと思ってるよ」

 ぽつりと口にすると、笑顔だった母の表情が真剣なものに変わる。

「もちろん本條さんが支援してくれたのも大きいけど。子供の頃から、オレがやることに決して反対せず見守ってくれたのは、母さんだけだった。いろいろと苦労かけたのに何ひとつ返せてねぇけど……ちゃんと、親孝行できる人間になるから」

 お母さんを守らなきゃ――泣き崩れる母の姿を見て、5歳のオレは確かにそう思っていたはずだ。愛茉の両親への気持ちに触れて、そのことを思い出した。

 たとえ親子であっても、口に出さなきゃ何も伝わらない。土産を買ったのは、ただの口実。本当はこれを伝えたくて、ここに来た。

「ヤダ、桔平。死なないで」
 
 母が唇を震わせながら言った。
 
「は?」
「こういうのって、あれでしょう?死亡フラグっていうのじゃないの?」

 ……涙目で何言ってんだ、この人は。浮世離れしているくせに、どこでそんな単語覚えたんだよ。

「死なねぇよ。オレは愛茉と長生きするって決めてんだよ」
「愛茉ちゃんって、フィアンセね?ねぇ、どんな子なの?とっても可愛いって、楓ちゃんから聞いたけれど」

 今度は目を輝かせている。コロコロと表情が変わるところは、本当に相変わらずだ。

「今度、ちゃんと連れてくるから」
「絶対よ?楽しみにしているからね」

 人がどんな想いで帰ってきたのかも知らず、呑気な人だ。やはり会話のキャッチボールは無理かもしれない。それでも、もう居心地の悪さは感じなくなった。

 オレは紅茶を飲み干して、気が向いたらまた顔を出すとだけ言って、帰宅することにした。

 玄関先で、母が愛茉への手土産にと紅茶の茶葉を持たせてくれた。そしてオレの左手をしっかりと握る。その両手を見ると、やはり少し年齢を感じてしまう。
 
「……桔平の気持ち、とっても嬉しかった。ありがとう」

 まるで祈りを捧げるように、握ったオレの手を胸元に当てる。
 
「忘れないでね。どんな時でも、私は貴方を愛しているってこと」

 オレと同じグレーの瞳で、じっと顔を見つめてきた。

 オレは小さく頷いて、少しだけ微笑んだ。上手く笑えたかどうかは分からない。ただ、母の瞳に浮かんだ涙を見て、これで良かったのだと思った。