放課後の部活。葉ちゃんと三階にある家庭科室で、先週材料を混ぜて成形し冷やしておいたアイスボックスクッキーを切り分け焼いていた。

 オーブンの中から焼き上がったクッキーの乗る鉄板を取り出すと、甘い匂いが一気に教室を満たしていった。

「火傷しないように、気を付けて取り出してね」

 部活顧問の林みどり先生が声をかける。匂いに釣られたのか、廊下に少しずつ人が集まりだした。

 家庭科室の並びには、天体観測部・美術部・合唱部・吹奏楽部にダンス部の教室もあった。集まっている顔ぶれの中には、ダンス部所属の拓海君の姿もある。

「柚ちゃーん。クッキー食いたーい」

 入り口付近に陣取り、メガホン替わりに口元に手を当て声をかけてくる。子どもみたいにねだる姿を見て笑っていると、拓海君に向けて葉ちゃんのお怒りが飛んだ。

「拓海は黙ってな」

 葉ちゃんに一喝されても尚、拓海君は笑って受け流している。メンタルが強い。

 粗熱が取れるのを待ち、各々で用意してきたラッピングバッグやボックスに出来上がったクッキーを詰め込んでいると葉ちゃんが言った。

「廊下で騒いでる拓海になんて、あげなくていいからね」

 期待を持った目を向けてくる拓海君を睨みつけた葉ちゃんは、しっしっと犬でも追い払うように手を振った。拓海君は、不貞腐れた顔をしている。

 部活を終えて廊下に出ると、待ち構えていた拓海君が擦り寄ってきた。

「クッキー。クッキー」

 弾むようなリズムをつけて言いながら、私たちのあとをついてくる。

「拓海、ウザいって」
「つめてぇなぁ。今井のはいいよ。俺は、柚ちゃんのクッキーが食いたいの」
「あんた。ちょいちょい失礼だよね」
「今井ほどじゃないよ」

 二人は漫談みたいな言い合いをしている。

 葉ちゃんの牽制にも諦めずうしろをくっ付いてきていた拓海君だけれど、部活を抜け出していたところを顧問の先生にみつかってしまった。

「何やってんだ、松本っ!」

 ヤベッ、と肩を竦める拓海君は、未練を浮かべた表情のまま連行されていく。

「柚ちゃんのクッキー、食べたかったよぉ~」

 名残惜しそうに悲しげな顔をして連れていかれる姿が可笑しくて、葉ちゃんと二人で笑いあった。

 クラスの違う葉ちゃんと別れ、玄関で待ち合わせをすることにした。教室に鞄を取りに行くと、中には柏木君一人がいた。忘れ物でもしたのか、机やロッカーの中を覗いている。ガサゴソと立てる物音以外静まり返った教室は、少し気詰まりで入る事を躊躇した。

 席が隣同士というのに、柏木君とは一言二言挨拶程度の言葉を交わした以外、いまだ会話と呼べるものをしていない。彼の周りにはいつも女子がいるから声もかけづらいし、あの不機嫌そうな返事などされたら委縮してしまいそうでなるべく距離を置いていた。

 探し物の邪魔をしないように、そっと教室に踏み込む。

 静かに席に行き鞄を手にしたら、部活前まで眺めていたお菓子専用ノートがバサリと音を立てて落ちてしまった。鞄の下敷きにしていたからだ。物音に顔を上げた柏木君が私の存在に気がつき、落ちたノートに視線を向けた。床の上では、ノートが中身を曝け出している。開いているページには、しばらく前から考えていたチーズケーキのイラストが見える。使うチーズの種類や他の材料の配分。混ぜ合わせるタイミングに型の大きさやデザインなど細かに記していた。

「ケーキ」

 柏木君は、抑揚のない声で呟いた。

 内緒にしているつもりはなかったけれど、不意に見られてしまったことに慌てて拾おうとしたら、同時に柏木君も体をかがめたことでお互いの手と手が触れ合ってしまった。ハッとして自分の手を引っ込めると、柏木君はかがめた体制のまま数秒こちらを見てからノートを拾い上げる。そして、ページが開いたまま差し出してきた。

「あ、ありがとう」

 焦って受け取り恥ずかしさに少しだけ俯くと、今度は私が手にしていたクッキーの納まる箱を指さした。

「甘い匂い」

 さっきと同じようにあまり抑揚なく言ったあと、シュッと目を細める。射すくめられたようで、恐怖にヒュッと小さく息が鳴った。

 甘い物が苦手だというのに匂いをさせて近づいたから、機嫌が悪くなったのかもしれない。

 更に焦りを滲ませ慌てて謝った。

「ごっ、ごめんなさいっ」

 勢いづけて頭を下げると、不思議そうな声をかけられた。

「なんで謝るの……」

 驚いたように訊ねる声に、恐る恐る上目遣いで様子をうかがうと、びっくりしたように目を大きく見開きこちらを凝視していた。

 柏木君の顔をまじまじと見たことはなかったから、こんなに大きな瞳をしていることを初めて知った。

 あ、片方にだけえくぼがある。

 そんなことにも気がつく。

「甘いの嫌いなのに、こんな匂いさせて。気分悪いよね……」

 体を強張らせながら機嫌を窺うようにしていると、柏木君は急にふっと表情を和らげた。えくぼの窪みが少し深まる。

「ああ」

 また笑う。その表情は、面白いものでも発見したみたいに楽しそうだし。クシャリと目じりを垂らして笑みを作る表情は、今まで抱いていたとっつきにくい印象をガラリと変えるのに充分だった。

 素敵な笑顔。女の子たちがキュンとしてしまうのもわかる。人気の秘訣は、クールさとのギャップなのかも。

「部活で作るの?」

 柏木君は、開いたまま手にしていたノートのチーズケーキに視線をやる。

「ううん。これは、違うの。えっと、お菓子作りが趣味で。いつもどんなお菓子を作ろうか考えてて」

 印象が変わったとは言え、挨拶程度しか会話をしてこなかった柏木君を相手にすると緊張してしまい、言葉がたどたどしくなってしまった。

「そっか。じゃあ、そのケーキは、いつ作るの?」
「えっと。これはまだ試作途中で……」

 もじもじして応えると、クスッと笑われる。それは、馬鹿にした笑いではなく、興味あるものに出くわした時の楽しそうな声に聞こえた。

「試作って言われると、お菓子作りのプロみたいだね。遠野さんスゲーな。そういうのパティシエって言うんだっけ?」

 柏木君の話し方は、普段聞いていた低く素っ気ない声ではなく。明るくノリのいい話し方だった。

 こんな風に話すんだ。知らなかった。

 彼のくだけた態度に安心すると、言葉がスルリと出てきた。

「パティシエになれたら素敵だよね。私の夢なんだ」

 今まで碌に会話もしてこなかった相手だというのに、気がつけば普段通りの自分でいられた。

「そっちは、部活で作ったの?」

 柏木君は、再び抱えていたクッキーの納まる箱を指さす。

 そうだった。嫌な匂いだよね……。

 もう一度「ごめんね」と謝る。

「いや、だから。謝る必要ないよ。俺、別に甘いもの嫌いじゃないし」

 え? 嫌いじゃないの?

 噂に聞いていたことと違うものだから驚いてしまう。

「え、でも、バレンタインのチョコ、受け取らなかったって……」
「あぁ、うん。あれね。なんていうか、気持ち返せない相手からは、受け取れないかなって」

 柏木君は、真摯な表情をした。

「ほんとはさ、滅茶苦茶甘いもの好きだから、喉から手が出るほど欲しかったんだけどね。けど、お返しも大変じゃん」

 はにかみながら笑う表情に、私もつられて笑みを浮かべる。

「ああいうのって、相手の気持ちがあってのことだから、断るのも結構しんどいんだよ」

 少し困ったような、切ないような顔をして吐露した。

 いつも女子に囲まれて、サッカー部のエースで人気者なのに。偉ぶらずに、相手のことを考えてるところに好感が持てた。集まってくる女子に対してぶっきら棒なのは、相手に余計な期待を抱かせないためなのかもしれない。けど、それって逆効果のような気がする。普段のクールさから、さっきみたいな人懐っこい満面の笑みなど見せられたら好きになる女の子は沢山いそうだ。

 そんなことをつらつらと考えていると、柏木君が再びクッキーの箱を見ていることに気がついた。子供みたいな期待が窺えて微笑ましい。

「これ、よかったら食べる?」

 会話が弾んだことでつい調子にのり、さっき箱詰めしたクッキーを差し出した。

「え、貰っていいの?」

 訊ねる顔があまりに嬉しそうでキラキラしているものだから、こちらもなんだか嬉しい気持ちになる。

「自分の作ったものを、誰かが嬉しそうに食べてくれると幸せな気持ちになるから」

 そう付け加えると、柏木君は一瞬時間が止まったようにこちらを見たあと、ほわっとした笑みを浮かべ。更に、ニカリと笑ってクッキーの箱を受け取った。

「スゲー嬉しい。ありがと」

 箱を受け取ると、さっそく蓋を開ける。

「うわぁ。綺麗に形も揃ってて、売り物みたいじゃん。凄いよ、遠野さん。めっちゃ旨そう」

 さっきよりも更に目を輝かせて感想を漏らす柏木君からは、本当に甘いものが好きなんだということが伝わってきた。

「あきひさーーー。はやくしろよー」

 同じサッカー部員だろうか。遠くの方から柏木君を呼ぶ声が聞こえてきた。

「やべ。部活の提出用紙探しに来たんだった」

 漸く思い出したというように鞄の中を漁り、クシャリとなった紙を一枚取り出した。

「あ~あ」

 折れ曲がった用紙に声を漏らしたあと「提出、今日までだったんだよ」と苦笑いを浮かべ机の上に広げて皴を伸ばしている。

「あきひさーーー」

 さっきよりも少し近づいてきた声に「今行くー」と柏木君が声を上げる。

「これサンキューな」

 皴になった提出用紙と入れ替えに、クッキーの納まる箱が彼の鞄の中にそっとしまわれた。

 イタズラな笑みを浮かべて、柏木君は教室の出口へ急ぐ。その背を見送っていると、不意にこちらを振り向いた。

「甘いもの好きは、遠野さんと俺だけの秘密だからね。あっ、あと。そのケーキ、作ったら食べさせてよ」

 まっすぐな瞳と言葉に、私はただコクコクと首を縦に動かした。胸の奥では、体に響くような優しい音が鳴っていた。