浪漫大正黒猫喫茶

 フロアの簡単な掃除も終わり、一息ついた後。

「さて。ちょこさん、そろそろ開店のお時間です。お気持ちの準備は大丈夫ですか?」

「はい、問題ありません!」

「その意気です。では――」

 頷くと、マスターさんが古木の扉を押し開けた。

「いらっしゃいませ。喫茶『淡海』、只今より営業開始いたします」

 落ち着いた声音で、外に待つ人へと声をかける――その、つもりだったけれど。

「い、いらしゃいませー……って、やっぱり今日も、開店前から待っているお客さんはいませんね」

「ふふっ。だからといって、欠かす習慣ではありませんけれど」

 とは言え、昼頃からはとんでもなく混む日もある。
 開店一番に駆け込んでくるお客さんがいないというだけの話だ。
 店先で待つ人がいるか否かは定かでなくとも、マスターさんは毎朝、この声掛けを欠かさない。
 理由は至って普通。もしいれば直接声が届くし、もしいなくとも自分の気分が締まるから、だそうだ。

「本日も、よろしくお願い致しますね、ちょこさん」

「はい! 頑張ります!」

 今の感情になるべく素直に返事をしたところ、思いがけず大きな声が出てしまった。
 恥ずかしさから咄嗟に口を噤むと、

「ふふっ。さ、中に入って待っていましょうか」

 マスターさんは、優しく私をお店の中へと誘ってくれた。
 それもまた何とも恥ずかしくて、私は少し俯いたまま、お店の中へと戻って行った。



 時は大正。
 国外の文化が根付き始め、街並みや、行き交う人々の纏う雰囲気が、ガラリと変わりゆく時代。

 ここは近江。
 お堀の美しさが映える、滋賀県近江八幡市。

 そこな土地にひっそりと構える喫茶店『淡海』で、私はお仕事をさせて頂いております。