社長の息子・学との同居生活が始まって初めての朝。阿久津は7時に起き、適当に昨日買ってきた材料でトーストと目玉焼きを作る。

素晴らしい。いやホント最高。

何しろ会社は同じビルのすぐ下にある。阿久津の場合、始業は9時なので、7時に起きても余裕でYouTubeを流しながら優雅に朝食を作ることができる。

台所はとりあえず確かに汚かったが、とりあえず表面だけパパッと拭き掃除して、ゴミや洗いかけの皿を寄せてスペースを作った。

片付けてやらないのかって? そこまでは面倒臭い。何しろ今日阿久津はいつも通りオフィスに出勤しなければならないのだ。そんな暇は無い。

手早く作った朝食を、阿久津は適当に綺麗そうな皿に盛る。よく見たら、高級陶磁器のマイセンの皿だった。阿久津は恐れ慄いて別の食器を探したが、他の食器もウエッジウッドやらティファニーなど錚々たるブランド物だったのでもういいやとマイセンの皿に簡素な目玉焼きトーストを盛る。ダイニングテーブルには沢山の本や段ボール、丸めた紙などが載っていたが、また適当に寄せてスペースを作り、そこへ皿を置いた。

「よし、いただきます」

阿久津が食事に手をつけようとすると、背後で物音がした。

「ん? あ、学くんおはよう!」

学が寝ぼけ眼でこちらを見ていた。髪は相変わらず寝癖ともともとの天然パーマでボサボサだったが、風呂上がりのような良い匂いがした。

学はこちらに軽く視線を向けただけで、特に何も言わなかった。まあ、引きこもりの若者が突然家に居候されて朝食勝手に作られてたらびっくりするよな。とりあえず阿久津は彼に話かける。

「部屋を貸してくれてありがとう。あの部屋、全然汚れてなかったね!」
「ああ、うん……元々お客様用の部屋だったから」
「お風呂も広くて、良い湯でした」
「あ、手前の風呂使ったんだ。全然掃除してないけど……」
「うん、軽くホコリ流したら使えたよ。って何⁈ 手前の風呂ってどういうこと? 風呂二個あるのこの家」
「え、あるけど。僕の部屋の近く。僕はそっち使ってる」

一体何がおかしいのか、という顔で学は不思議そうにしている。このナチュラルボーン金持ちめ。

「トイレも3つあるから、その……お互いのためにそれぞれ違うの使った方がいいと思う。僕、掃除サボりがちだから」
「トイレもそんなにあるんかい……」

阿久津は頭を抱えた。水回りが多すぎる。それは学でなくても掃除サボりがちになってしまうと思う。きっと以前佐伯社長一家が暮らしていた時はお手伝いさんが掃除していたのだろう。すると、学がポツリと言った。

「怒らないの?」
「え? 怒る? 何を怒るの」
「こんなに散らかして片付けもしないで、だらしないって。よく父さんや僕を更生しようとする人たちから言われた」
「いや怒らないよ。こんな広い家、誰でも掃除するの無理だって」

阿久津が笑って否定すると、学の肩の強張りが落ちたように見えた。

「そう。なら良いけど」
「昨日も言ったけど、私はこの程度では驚きませんよ。ほら、今だってゴミと隣同士でご飯食べてる」

阿久津が机のゴミを寄せて作ったスペースを指差すと、少し学の頬が緩んだ。あれ、笑ったかも? そう思った時、突然ギュルルという音があたりに響いた。学のお腹の音だった。

「あれ、学くんお腹空いてる?」
「いや別に……」

学が言った瞬間、またお腹が鳴り、彼は赤面した。阿久津はあたりに散らばっているゴミを見る。カップ麺の空き容器や、宅配アプリで頼んだと思われるラーメンやジャンクフードの空き容器。キッチンの散らかり様から見ても、学の栄養状態が良いとは思えなかった。

「もし良かったら、目玉焼きもう一個、まだ手付けてないから食べる?」

阿久津の朝食も栄養素完璧とは言い難いが、とりあえず作りたてで温かい。それに、卵はほぼ完全栄養食だ。

「いや、良いよ。大丈夫」

学は首を振る。

「食べなくて平気? 何時に起きるのかも、どんなものが好きなのかも分からなかったから学くんの分は作ってないんだ」
「大丈夫。ネトゲや落書きに夢中になってると、いつのまにか平気で1日何も食べてなかったりするし」
「ええー、それは凄いね」

食後二時間過ぎるともうお腹が空いている阿久津とは大違いだ。しかし、さっきから学のお腹は鳴りっぱなしだし、やたらと彼の目線が目玉焼きに向いている気がしているのだが、拒否する人の口に無理矢理突っ込むわけにもいかない。目玉焼きは阿久津が美味しく頂いた。

「しかし、ネトゲはなんとなく分かるけど、落書きって? 学くん、絵を描くの?」
「あ、いや別に……テキトーなイラストとか」
「へえ! 何で描くの? パソコン?」
「デジタルでもアナログでも描くけど、大抵はその辺の紙に走り書き……もういいよ、この話は」

学は目を伏せて、さっさと自室に戻ってしまったようだ。絵のことを聞かれるのが嫌だったのだろうか。

「……ま、いいか」

確かにいくらかコミュニケーションが苦手なのは確かだが、それでも十分朝から喋ってくれた。初日にしては上々。無理せずやっていこう。

ふと、机の上や床に転がっているぐしゃぐしゃの紙が気になった。ティッシュなどでは無い、もう少し硬く、何かを書けるような質感の紙だ。好奇心から、阿久津はその紙の一つを取って開いてみた。

「あ」

鉛筆で描いたイラストが出てきた。体育座りをして泣いている男の子の絵。髪がもじゃもじゃしていて、それは小さい学のようにも見えた。絵の鑑賞能力が無い阿久津にも、それは結構練習を積んだ人のタッチであることは何となく分かった。

凄いな。これをぐしゃぐしゃに丸めてポイなんて勿体無い。でも本人はこれを人に見られたり、何かを言われたりするのはきっと嫌なのだろう。阿久津はそれを元通り丸めて元の場所に置いた。

「ヤバい、もう8時45分か」

会社が同じビル内だからって油断しすぎた。阿久津は慌てて食器を洗面台にぶち込み、帰ってから洗うと誓って玄関に向かった。