阿久津は目の前のモジャモジャ頭の男を落ち着かせようとした。

「とりあえず、手に持ってる新聞紙を置いてもらって良いかな?」
「嫌だよ、怖い。不法侵入で警察に言うよ」
「何度もピンポンしたんだけどな。応答が無いから、最悪の事態も心配して入ってしまいました。ごめんなさい」
「そんなの、知らない人が訪ねてきたら居留守使うに決まってる」

子どものように怯える佐伯 学《さえき まなぶ》25歳。無理もないか、なんせ最悪の出会い方だから。とりあえず、根気よく話をして警戒心を解くしかない。あまり堅苦しい敬語はかえって心の距離を生むので、敢えて後輩に接するようにちょっと親しげな口調で話す。

「お父様から連絡が無かったかな? 今日から教育係として私が来るって」
「え? 父さんから?」

学は黒い毛玉だらけのスウェットのポケットからスマホを取り出した。

「父さん」という呼び名に、なんだか少し安心感を覚えた。「クソ親父」や「あの人」などではないところに育ちの良さと素直さを感じる。

「……最悪。父さん、また業者に俺のこと依頼したのかよ。しかも住み込みって。意味分かんないよ」

ようやく父親からの連絡を見たらしい学は、モジャモジャ頭を乱暴に掻き毟った。

「一応、自己紹介させていただくと、お父さんの会社で新人の教育係を担当させて貰ってるんだ。だからまあ、業者というか素人なんだけども、よろしくね」
「悪いけど、帰ってください」

学は阿久津と目を合わせぬまま、はっきりとした口調で言った。

「どんな人がどんなやり方をとろうが僕の社会復帰は無理だよ。僕だって外に出よう、社会復帰しようと努力したさ」

過去を振り返って少し辛くなったのか、学が言葉を詰まらせる。

「でも駄目なんだ。どこに行っても僕は役立たずだし、頭が悪いし、嫌われる。父さんや兄さん、姉さんのようにはなれないんだ。
最初はみんなあなたみたいに優しく接してくれた。でも僕の駄目さ加減に呆れて、段々イライラしてくるんだ。部屋から無理矢理出そうとして腕にあざができるまで引っ張られたり、時には「金持ちに生まれて甘やかされたからこうなったんだ」と罵られもした。もう、沢山なんだよ」

彼が苦しそうに言葉を絞り出している様は、これまでにも沢山の人間、それも父親が良かれと思って派遣した人たちに傷つけられてきたことを物語っていた。

阿久津はその現場を見たわけではない。だがきっとそのプロの人達だって今まで何人も引きこもりの人を助けてきたはずだ。こういうのにはきっと人それぞれ正解があって、人と人同士の相性というものも存在するのだろう。

阿久津には、その正解が分かるのか?

それはやってみないと分からない。でも、目の前で苦しんでいる青年を放っておくわけにいかない。今の彼の発言や表情は、あの時の自分と少し似ている。抱えている悩みは違えど、何か助けになりたい。しかし学は頑なだった。

「お願い、帰って」

もう傷つきたくない、とばかりに学は阿久津の肩を軽く押して玄関に戻そうとする。

「わっ」

急に力が加わったことで、大した強さではなかったのだが阿久津は思いがけずよろけてしまった。阿久津の肩は左側の壁にぶつかる。痛くはなかったが、思いの外鈍い大きな音が出てしまった。

慌てたのは阿久津ではなく、阿久津を押した学の方であった。

「ご、ごめん! 本当にごめんなさい。怪我は無い⁈」
「え、ああ全然大丈夫だよそんな大袈裟な」
「そんなつもりではなかったのに……ごめんなさい」

学はオロオロしながら阿久津の肩周辺を確認している。全力で相手を拒絶するかと思ったら、今度は相手を心配して謝り倒す。なんというか、不思議な子だ。他人を恐れているけれど、憎んでいるわけではないんだろうなと阿久津は思う。

「心配してくれてありがとう。でも、本当に大丈夫。むしろ私の肩で壁がへこんだら大変だった。修繕にいくらかかることか」

とりあえず軽口を叩いて学を安心させる。

「そ、そっか。良かった」
「でもやっぱり、人のこといきなり押したり触ったりするのは良くないね。危ないからね」
「ご、ごめんなさい! その通りです」
「それじゃあ、ちょっとずるいかもしれないけど、今のを不問にする代わりに私をこの家から追い出さないでくれるかな?」
「うっ」

断りづらい条件を提示されて、学は白い頬を引き攣らせた。

「あなたの生活の邪魔はしないし、無理矢理叩き起こしたり外に連れ出そうともしません。ただ、私に一室、どこかの部屋を貸してほしいんだ。私はそこでとりあえず、ただ生活してみることにします」
「な、何それ。そんなことして何の意味があるの」
「まずはあなたのことを知ろうと思って。そばで一緒に生活してみようと考えたんです。良いよね?」
「良くないよ。僕、朝方までネトゲして通話でめっちゃ煩いし、部屋はこの通り散らかってるし……普通の女性なら、耐えられないと思う」
「大丈夫ですよ。私普通の女性じゃないし」
「えっ、どういうこと」
「じゃあ、勝負しましょうか?」
「な、何を」

突然阿久津に勝負を仕掛けられて、学は戸惑いを隠せない。

「風呂に入らなかった日は最高で何日?」
「え⁈」

言われた途端、学の青白い顔が真っ赤になった。

「すみません、臭くて……」

言いながら、学は後ろに下がって阿久津と距離を取る。

「あ、ごめん。そういう意味じゃなくて単純に知りたかっただけなんだけど。ちなみに私は最高で6日」
「ええっ⁈」

阿久津が真顔で言うと、学はのけぞって驚いた。

「ゴールデンウィーク期間、お風呂めんどくさくて入れなかったんですよね。今だって出社が無ければ入らないかもしれない」
「僕は、最高で3日です」

学はその後、ボソッと「女の人ってお風呂大好きだと思ってた……」と呟いていた。幻想を打ち砕いてごめんよ、多分他のほとんどの女性はちゃんと風呂には入ってるけど、と阿久津は心の中で謝罪する。

「じゃあ、風呂入らない勝負は私の勝ちだね。次は、飲みかけのペットボトル勝負といこうか」
「部屋に何本飲みかけのペットボトルを放置しているか、という勝負ですか?」
「察しが早いですね。その通り。ちなみに私は45本です。飲みかけでいつから置いておいたか分からない麦茶の中身が真っ黒になっていました」
「……負けました。10本です」
「ホント? それ一般人レベルじゃないですか。自己管理普通に出来てる」
「玄関の前に出しておけば勝手に業者が回収してくれるので」
「なるほど便利だね。では、この勝負も私の勝ちということで」

勝っても全然嬉しくないこの勝負、当たり前だが阿久津が己のだらしなさを誇るためにやっているわけではない。

◆阿久津流 教え方・その1◆
 とにかく相手には自分を大きく見せようとしない

新人教育の上でもそうだが、相手は今、とても緊張している。そんな時、偉そうに先輩ヅラをしたり、必要以上にできる自分を見せびらかすと、相手は委縮して意欲を無くしてしまうのだ。だから阿久津は、まず自分が失敗したエピソードなど、相手に身近に感じてもらいやすい話題ををわざと話すようにするのだ。

「そういうわけだから、全然お構いなく。これからよろしくね。ええと、呼び名は学くん、で良いかな?」

苗字で「佐伯くん」と呼ぶと社長も佐伯でややこしいので下の名前で呼んでみた。

「別に、なんでもいいです」

学はこちらに目を合わせないまま返事した。

「私の名前は阿久津ね。気軽に呼んでください」
「うん……」
「それじゃあ早速なんだけど、私が使っても良い部屋はあるかな?」

玄関入ってすぐでも沢山ドアが並び、部屋が沢山があるのが分かる。一室くらい借りても問題は無いだろう。互いのプライバシーを守るためにも個室は必要だ。すると、学は玄関から入って一番手前のドアを指差した。

「あの部屋なら。多分、一番汚さがマシだと思う。僕はあんまり使ってないし」
「ありがとう!」

一番綺麗な部屋を勧めるあたり、やはり根はいい子なのだろう。

「さっそく使わせてもらうね」
「うん……。ごめん。僕、もう部屋行ってていいですか? 久々にリアルで人と沢山話して、疲れた」
「あ、ごめん気づかなくて! いいですよ! もちろん。あとは勝手にやらせてもらうので、ゆっくり休んでください。お疲れ様」
「は、はあ」

簡単に解放されたのが意外だったのか、学は拍子抜けしたような顔をしていたが、すぐに奥の部屋へ下がっていった。

さて、これから未知の新生活が始まる。心配事も多いが、この大豪邸に暮らすのはやはりワクワクする。廊下にくしゃくしゃに丸めた紙やビニール袋などが散乱していたりするが、それはご愛嬌。元・汚部屋の住人である阿久津にとっては屁でもない。

「失礼しまーす」

阿久津は誰もいない部屋に小声で挨拶しながら、これから暮らす自分の城へ入っていった。