「あれ、阿久津さん今日荷物凄いっすね!」

デスクで急に声をかけられ振り向くと、後輩の間宮と、先日間宮の部署に送り出したばかりの新人・花澤が。

「ああ、うん。実は土日で実家の富山に帰るんだよね」
「帰省ですか。富山良いなあ! 白エビとか、ホタルイカとか!」

無邪気に羨ましがる食いしん坊男子の間宮に引き換え、花澤はちょっと不思議そうだ。

「でも、週末だけ帰るにしては超大荷物ですね」

さすが、先月までずっと一緒にいた花澤だ。よく気づく。いや、むしろこの荷物の量で何も疑問に思わない方がおかしいか。キャリーバッグにボストンバッグ、それに、紙袋二つ分の荷物に埋め尽くされた自分のデスクを改めて見て阿久津は内心苦笑する。

「いやー、久しぶりの帰省だから、親や親族から沢山お土産頼まれてさ」
「ああ、そうだったんですね。それは親御さんたち、楽しみにしてるんでしょうね」
「ははは。困ったもんだよね」
「一瞬、阿久津さんが異動しちゃうのかと思ってビックリしましたよ!」

良かったー、と花澤は胸を撫で下ろした。なんとか誤魔化せたか。

「実は今日から社長の息子と一緒に住むので、このビルの47階にとりあえず必要最低限の荷物だけ持って行くんだ」なんて、本当のことを言ったらフロア中に激震が走るだろう。

何故、こんなことになったのか阿久津も訳が分からない。阿久津はあの日の社長との話し合いを思い出す。

◇◇◇

「社長、私は確かに教育係としては何人か担当していて、それなりに慣れてはいますが、引きこもりの方の更生のようなことは経験がありませんし、知識も無いです。正直、その道の専門の業者などを当たった方が……」
「業者やその手のNROには頼んだよ。散々ね。でも全然効果が無いどころか、逆に息子を苦しめてしまった」

社長の口ぶりだと、当たった業者は1つや2つではなさそうだった。

「そこで私は、様々な可能性に賭けてみたいと思ったんだよ。色々考えた時に、我が社の社員ほど優秀な人材はそう居ないということに気づいた。こんな言い方は身も蓋も無いが、日本のエリートが集まる会社だ。だとしたら、きっと息子を励ましてくれるスペシャリストもいるはずだと」
「そ、そうでしょうか」

大学はその辺の中堅私立卒、学生時代に大した留学もボランティアもサークル活動もしていなかったのをなんとかエピソードを絞り出して内定を貰った阿久津にとっては、自分が「エリート集団」の一員とされるのは流石に無理がある気がした。そんな阿久津の心理を見透かしたかのように社長は続ける。

「息子に必要なのはおそらく、業者や専門家のノウハウなどではなく、息子と対等に接してくれる、一緒に頑張ってくれる存在なのではないかと思うんだ。阿久津さんと話していると、君にはそれができるような気がするんだ。特別な知識なんてなくていい。息子と友達のように接してやってくれないか」
「友達、ですか。息子さんはええと、25歳でしたっけ」

阿久津は今年31歳なので、実に6歳差だ。教育係としてなら接することはできるかもしれないが、友達となると、自分で良いのかという不安を覚える。

「私は阿久津さんの年齢というよりは人柄を見て、学と相性が良さそうだと思っているのだよ」

阿久津の不安を読み取ったのか、社長がすかさずフォローする。

「ううーん、そうですかね。ありがとうございます」
「では、やってくれるか。阿久津さん」

社長の息子を預かるというプレッシャーや、これからこの大きな秘密を抱えていくことの重大さを考えると、正直断りたい。だが、社長も生半可な気持ちで頼んできてはいないことは、その真剣な眼差しからも明らかであった。

引きこもりか。阿久津は考える。

阿久津は運の良いことに、少ないが友人にも恵まれ、親との関係もたまに喧嘩することはあったがおおむね良好だった。

それでも、ある時期……それもそう昔ではない時に阿久津も自暴自棄になったことがあった。

今、その引きこもりの社長の息子・学は、きっと以前の阿久津のように誰にも助けを求められず苦しい思いをしているはずだ。

それを思うと、このままこの話を聞かなかったことにして帰ることは出来ない。

「分かりました。私でよければ、お力になりたいです。息子さん……学さんと会わせてください」

阿久津の返事を聞くと、社長の鋭い目の端から安心したように力が抜けた。

「ありがとう。君に断られたら、正直もうどうしたら良いか分からなかった」

社長も今まで相当悩んできたのだろう。阿久津がこの仕事を請け負うことで社長が本来の業務に専念できるのなら、社員としてもやり甲斐は充分ある。だが、この状況をようやく受け入れた阿久津に更なるぶっ飛んだ情報が提示されることになる。

社長は立ち上がり、壁にかけられた大きなカレンダーを指し示してこう言った。

「それでは早速だが阿久津さん」
「はい」
「いつから引越しできるかな?」
「はい?」

◇◇◇
午前の仕事が終わり、阿久津はいそいそと持ってきた大荷物を持ってエレベーターに乗り込む。

目的地は、もちろん例の47階である。裏口のスタッフ用エレベーターか、社長室からの直通階段からしか行けない仕様なので、辿り着くまで非常に面倒くさかった。

嗚呼、大丈夫か。何故こんな滅茶苦茶な提案を受け入れてしまったのだろう。47階に社長の息子と同居するなんて。阿久津は社長とのやりとりを回想を終えると、1人スタッフ用エレベーター内で悔やんだ。

社長が阿久津を息子と同じ47階に住まわせたいと思う理由は主に以下の2つであった。

・息子・学は極度の人見知りであり、以前何度か業者やカウンセラー相手に心を開きかけたことがあったが、少し会わない期間があるとすぐにまた人見知りしてしまう

・学の生活習慣はかなり酷く、昼夜逆転生活や栄養バランスの悪い食事などを変えるには同居人が常に一緒にいることが一番

確かに一見筋が通っているようには思うが、いくらなんでも成人した赤の他人の男女を一つ屋根の下に住まわせるのはいかがなものか。阿久津ももちろん抗議した。しかし、社長から更なる提案があったのだ。

「阿久津さん、見たまえ」

社長は胸ポケットから一枚のカードを取り出した。

「このカードはこのビルの住人専用のカードキーだ。実は元々、47階には我々一家がみんなで住んでいたのだが、長男長女が出ていき、私達夫婦も学が手に負えず別の物件に引越し、今は学だけが住んでいる」
「はあ」

阿久津は社長の手元で光るゴールドのいかにもハイクラスなカードキーを見た。社長はそれを机の上に置き、阿久津に差し出した。

「君にこれを預ける」
「ええっ、そんな。困ります」
「47階の学の部屋に入るにはそれが必要だ」
「いや、まだ私、47階に住むと決めたわけでは」
「このカードを提示すれば、このビルの屋上プールは出入り自由、最上階のバーも無料。もちろん他の飲食店も無料だし、何も言わなくても基本VIP席を取ってもらえる。買い物は確か、ブランド品含めて何でも一年中2割引だったかな? あとはビル内ジムも無料で24時間週に何回も通い放題だ。映画もプレミアムシートが無料。その他にも様々な特典が付いてくる。どうだい? 使いたくないだろうか」
「えっ……特、典? 飲食店……無料?」
「何より」
「何より?」
「会社と同じビル内に住むわけだから、当たり前だが通勤時間は0分だ」
「確かに、そうですね」
「今は通勤にどれくらいの時間を使っているんだい?」
「ドアtoドアで大体1時間半かけてますね……」
「ほう。それならもしこのカードを手に入れればとても楽になるんじゃないか?」

今まで、同じビル内で働いていてもその価格帯とハイソな雰囲気でなかなか縁が無かったこの三友ヒルズのショッピングセンター。社長のこのカードがあれば、日常的に買い物ができるのではないだろうか。何より、今まで1時間以上もなっていたあの満員電車から解放されるというのは阿久津だけでなく全サラリーマンが望んだことだろう。

社長からしてみれば、そのカードは阿久津を釣る良い餌であり、本件を社内に広めないようにという「口止め料」でもあるのだろう。だがそれが分かっていても、富山の田舎町出身の阿久津にとってはとても魅力的な提案であった。そして、気付いたら阿久津はその魔法のカードを受け取っていたのである。これが事実上の同居の承諾となった。元々社長一家が皆で住んでいたくらいだ。部屋は有り余っているはず。ルームシェアのように互いのプライベートを分ければ問題無いはずだ。

「阿久津さん、最後に一つ、確認していいだろうか」
「はい」

去り際、社長に呼び止められ、阿久津は振り返る。

「あなたの部屋は、その……散らかってたりするかい?」
「えっ」

思いがけない質問に阿久津は戸惑った。

「社長から見て、私は部屋の掃除が苦手そうに見えましたか?」
「いや全然。だからこそ心配してるんだ」

何となく、社長の質問の意図とこれから起こることが分かった気がした。阿久津は笑って答える。

「ご安心ください。少し前ですが、メンタルも部屋も大荒れだった時がありますので」

阿久津の返事を聞くと安心したのか、社長の目が穏やかになった。

「面倒ごとを頼んで悪いが、阿久津さん、期待しているよ」


◇◇◇

そうして特権に目が眩んで同居を容認した阿久津だったが、早速壁にぶち当たる。

無事に47階には到着した。ワンフロア全てが社長家の持ち物、ということで、エレベーターを出ると廊下にはポツンと一つだけ玄関ドアがある。深い色合いの木目調の壁とドアを、間接照明が柔らかく照らしていた。何かの気配に振り返ると、監視カメラが二台、横と後ろから阿久津をじっと捉えていた。さすがのセキュリティである。

阿久津は一呼吸置いて、ピカピカに光る呼び鈴を押す。意外にも一般家庭と同じようなピンポンという音がしたのを聞いた。

しかし、家主の反応は無い。だが、阿久津を見張っている監視カメラがぐるりと動いた。

あ、居る。

阿久津はもう一度ピンポンを鳴らし、今度はマイクらしきところへ声をかけてみた。

「こんにちは。突然申し訳ございません。本日からこちらでお世話になる、三友商事の阿久津と申します。お邪魔してもよろしいでしょうか?」

相変わらず返事は無い。その後も阿久津は間を開けて、10回は呼び鈴を押した。しかし、結果は同じだった。相手にとったら、見知らぬ人がいきなり荷物を持ってきて自分の家に入ろうとしているわけだから、それは怖くて当たり前だろう。しかし、いい加減阿久津も大荷物を持って待機しているので段々と腕が痺れてくる。

社長はあらかじめ阿久津が来ることを彼に知らせてくれているらしい。それならば、ただ単に顔を合わせることが怖いだけで、家に入ることは分かっているはずである。それならば、と阿久津は早速、社長からもらった魔法の金のカードキーを取り出した。

「学さん。すみませんが、返事が無いので入りますよ」

カードをドアに付いている読み取り部分にスキャンすると、ロックの開く音がした。そして、阿久津はいよいよその重厚な扉に手をかけた。

後の展開は冒頭の通りである。部屋に入った途端、待ち構えていた学に新聞紙の刀を突きつけられ、いきなりピンチを迎えることとなったのだ。