「阿久津さん、あのね。最初に言われたと思うけど、ホウレンソウは大事だよ。報告、連絡、相談でホウレンソウ。社会人としての基本だよ。分かるよね?」
「はい」
「そうそう、分かってるならやってよ〜。出来ないなら僕でも星くんでもいいから「出来ない」って言ってくれるだけでいいんだから」
ハハハ、と影山主任は笑って阿久津の背中を軽く叩いた。励ましてくれたつもりなのだろうか。しかし阿久津の気持ちは晴れなかった。とにかく、早く滞っている業務を終わらせなければ。
「まあ、僕が新人だった頃に比べたら阿久津さんはだいぶ恵まれてるよ。こんなマニュアルなんて大層なもの、僕の頃には無かったし、教育係なんてのも居なかった。全部自分の力で習得してきたんだよ。だから阿久津さんもできるって!」
「そうなんですか……」
マニュアルもあって、星という教育係もいるのにミスをしている自分は何なのだろう。阿久津は今すぐこの場から消えて無くなりたかった。
阿久津が再び席に座ると、情けなさと危機感で涙が勝手に溢れてきそうになった。駄目だ、こんなことでみんなの前で泣いてしまったらますます悪目立ちしてしまう。「今年の新人は駄目だね」と言われることが怖かった。阿久津がしっかりしないと、星にまで迷惑がかかってしまう。
必死に涙を堪えるも、限界が来てトイレに逃げた。泣きに行ったと思われるのが嫌で、わざとゆっくりとした足取りで、まるで髪を直しに行くかのように毛先を気にしながら。
トイレの個室に入ると、阿久津は声を押し殺しながら泣いた。やっぱり自分が三友商事で働くなんておこがましいことだったのだ。この会社の中で、きっと1番自分が仕事ができなくて、役立たずだ。
本音を言えば今すぐ家に帰ってベッドにダイブして、思い切り泣いて寝てしまいたい。でも、自分に割り振られた業務をやらなければ。やらないと、星にも、影山主任にも、ひいては部署全体に迷惑がかかる。
涙を拭いて個室から出る。鏡を見ると、少し目元が赤い気がしたが、これくらいなら誤魔化せるだろう。
気合いを入れ直して阿久津は女子トイレから足を踏み出した。オフィスではさっきまで泣いていた気配を絶対に見せたくない。メンタルが弱い新人だと思われたら困る。懸命に感情をせき止めようとする彼女を、誰かが呼び止めた。
「阿久津さん?」
振り返ると、星がこちらに駆け寄ってきていた。阿久津はなるべく何事もなかったかのように笑顔を作った。
「星さん。お疲れ様です、打ち合わせ終わったんですか?」
「ああうん、終わったんで今戻ってきた。それより、なんか元気無いね?」
少し小声で、星が心配そうに顔を覗き込んできた。
「ええ、そう見えます?」
阿久津は大袈裟なくらいに明るく言って誤魔化そうとする。すると、星は阿久津の肩を引き寄せてオフィスとは違う方向へ連れて行く。
「ちょっと、星さん⁈」
星に触れられていることや、どこかへ連行される気配を感じて阿久津は困惑する。
「星さん私、今すぐ戻ってやらなきゃいけないことが」
「良いから。ちょっと下の階にコーヒーでも飲み行こ」
「でも」
「俺が手伝えば一瞬だから。まずは気持ちを落ち着けること。仕事より、阿久津のメンタルが俺は心配だよ」
その言葉に、我慢していた涙がまた決壊したかのようにダラダラと流れ出した。星は気付いていたと思うが、阿久津の顔は直視せずに、周りから隠すように彼女の背中を抱いて廊下を歩いた。
阿久津は泣きながらも、今の状況を他の社員が見たらどんな風に思われるだろう、と少し恥ずかしく思っていた。いくら慰めようとしてくれているとしても、どう考えても星は距離が近く、普通ならセクハラと言われてもしょうがない。
30歳を過ぎ、星との付き合いも長くなった今なら分かる。星のこうした行動を見た周囲の人の感想は、「あ〜またやってんな、あの男。そんであの子も引っ掛かっちゃってるよ」である。それに尽きる。
「はい」
「そうそう、分かってるならやってよ〜。出来ないなら僕でも星くんでもいいから「出来ない」って言ってくれるだけでいいんだから」
ハハハ、と影山主任は笑って阿久津の背中を軽く叩いた。励ましてくれたつもりなのだろうか。しかし阿久津の気持ちは晴れなかった。とにかく、早く滞っている業務を終わらせなければ。
「まあ、僕が新人だった頃に比べたら阿久津さんはだいぶ恵まれてるよ。こんなマニュアルなんて大層なもの、僕の頃には無かったし、教育係なんてのも居なかった。全部自分の力で習得してきたんだよ。だから阿久津さんもできるって!」
「そうなんですか……」
マニュアルもあって、星という教育係もいるのにミスをしている自分は何なのだろう。阿久津は今すぐこの場から消えて無くなりたかった。
阿久津が再び席に座ると、情けなさと危機感で涙が勝手に溢れてきそうになった。駄目だ、こんなことでみんなの前で泣いてしまったらますます悪目立ちしてしまう。「今年の新人は駄目だね」と言われることが怖かった。阿久津がしっかりしないと、星にまで迷惑がかかってしまう。
必死に涙を堪えるも、限界が来てトイレに逃げた。泣きに行ったと思われるのが嫌で、わざとゆっくりとした足取りで、まるで髪を直しに行くかのように毛先を気にしながら。
トイレの個室に入ると、阿久津は声を押し殺しながら泣いた。やっぱり自分が三友商事で働くなんておこがましいことだったのだ。この会社の中で、きっと1番自分が仕事ができなくて、役立たずだ。
本音を言えば今すぐ家に帰ってベッドにダイブして、思い切り泣いて寝てしまいたい。でも、自分に割り振られた業務をやらなければ。やらないと、星にも、影山主任にも、ひいては部署全体に迷惑がかかる。
涙を拭いて個室から出る。鏡を見ると、少し目元が赤い気がしたが、これくらいなら誤魔化せるだろう。
気合いを入れ直して阿久津は女子トイレから足を踏み出した。オフィスではさっきまで泣いていた気配を絶対に見せたくない。メンタルが弱い新人だと思われたら困る。懸命に感情をせき止めようとする彼女を、誰かが呼び止めた。
「阿久津さん?」
振り返ると、星がこちらに駆け寄ってきていた。阿久津はなるべく何事もなかったかのように笑顔を作った。
「星さん。お疲れ様です、打ち合わせ終わったんですか?」
「ああうん、終わったんで今戻ってきた。それより、なんか元気無いね?」
少し小声で、星が心配そうに顔を覗き込んできた。
「ええ、そう見えます?」
阿久津は大袈裟なくらいに明るく言って誤魔化そうとする。すると、星は阿久津の肩を引き寄せてオフィスとは違う方向へ連れて行く。
「ちょっと、星さん⁈」
星に触れられていることや、どこかへ連行される気配を感じて阿久津は困惑する。
「星さん私、今すぐ戻ってやらなきゃいけないことが」
「良いから。ちょっと下の階にコーヒーでも飲み行こ」
「でも」
「俺が手伝えば一瞬だから。まずは気持ちを落ち着けること。仕事より、阿久津のメンタルが俺は心配だよ」
その言葉に、我慢していた涙がまた決壊したかのようにダラダラと流れ出した。星は気付いていたと思うが、阿久津の顔は直視せずに、周りから隠すように彼女の背中を抱いて廊下を歩いた。
阿久津は泣きながらも、今の状況を他の社員が見たらどんな風に思われるだろう、と少し恥ずかしく思っていた。いくら慰めようとしてくれているとしても、どう考えても星は距離が近く、普通ならセクハラと言われてもしょうがない。
30歳を過ぎ、星との付き合いも長くなった今なら分かる。星のこうした行動を見た周囲の人の感想は、「あ〜またやってんな、あの男。そんであの子も引っ掛かっちゃってるよ」である。それに尽きる。
