敏腕教育係は引きこもり御曹司を救えるか?

新人だった阿久津は、しょっちゅう別の業務で居なくなる星のことを本気で憧れの対象として見ていた。色んな部署や役職の人から引っ張りだこで、顔が広く、上からの評価も明らかに高い。こんな凄い人が教育係になった自分はとても運が良い。自分も、先輩である星のようにならなければ。阿久津は、1人ポツンと残されたデスクでそう誓い、マニュアルを広げた。

マニュアルはどんなに丁寧に読んでも1時間で読み終えた。しかし、結局内容的には業務の簡単な紹介に終始しており、具体的にどうやってやるのか、以前のデータはどこにあるのかなど、肝心なことはほとんど書いていなかった。

「あの、すみません。こちらのマニュアルにある、給与計算システムのログイン方法を教えていただけませんか? どうやら今月末までにシステムに入力をして経理部と連携取らなきゃいけないらしくて……」

星が戻って来ないため、近くのデスクにいた人に声をかけた。その人はしげしげとマニュアルを眺めると言った。

「あ、給与計算か。ごめんねー私、担当外だから全く分からないんだよね」
「そうでしたか! ごめんなさい、担当もわからず聞いてしまって」
「ああ、いやいや全然。でもさ、阿久津さんには星くんがついてるから無敵だよ。なんでも聞いちゃいな!」
「ふふふ、そうですね。心強いです」

結局何も解決せずに、「星はいかに凄いか」という雑談だけして終わった。楽しかったが、業務のことは何も分からず焦る気持ちが消えない。他にも手当たり次第周りの人に業務のことを聞いてみたが、皆担当外のことは把握していないらしく、求めていた答えは返って来なかった。

そんな調子で1週間が過ぎた。

朝、星に会うと阿久津は彼を真っ先に捕まえて業務のことを聞こうとするが、途中で内線が来たりチャットで呼び出されたりして最後まで聞けたためしがなかった。阿久津は自分のタイミングの悪さにだんだん嫌気がさしてきた。その間も、星は何かの社内コンペで優秀賞を獲ったらしく、幹部から表彰されていた。

焦りと憂鬱でぐちゃぐちゃになっていたそんなある日、阿久津は主任から声をかけられた。主任から話しかけられたのは、阿久津が就職して最初の歓迎会の日の挨拶以来だろうか。確か、名前は影山《かげやま》と言ったか。

「阿久津さん、月末の給与計算って経理部に連絡の準備してる? なんか遅いって経理のリーダーから連絡あったんだけど」

主任が言っているのは、今まさに阿久津がやろうとして全く分からない業務のことであった。当たり前だが、恐れていた事態が起きた。

「申し訳ありません。まだ出来ていなくて……マニュアルを頼りに、システムにログインして確認作業をしていたのですが、これで合っているのかどうか……」

平謝りする阿久津に、「ええ?」とかなり驚いた様子の影山主任。

「ちょっと画面見せて」
「はい」

阿久津が作業中のモニターの画面を見せると、主任は能面のような無表情になり、言った。

「これやり方全然違うね」

やはり単なる当て勘でやっていただけだし、そうなるか。

「申し訳ありません」
「いや謝ってほしいわけじゃなくて。マニュアルってわけじゃないけど、去年までの作業データはここのフォルダに保存してあるからさ。これ見てやれば間違えないと思うよ」

主任は早口で喋りながら阿久津の知らないフォルダを開いて示した。かなり奥深く探さないといけない場所に、そのデータはあった。

「ありがとうございます。助かりました!」
「悪いけど、急いでやってほしい。出来たら今後は必ず僕にも声をかけること」
「はい、最優先でやります」

阿久津が頭を下げると、頭上で主任がフンと鼻で笑う音がした。

「星くんがついていながらこんなことになってるとはね」

阿久津は何と返したら良いか分からず、黙って俯いていた。多分今、周りのデスクの人たちもこの会話を聞いている。今日に限ってなんでこんなに部屋が静かなんだろう。今、部屋中の人たちに自分の無能さが暴露されているのかと思うと恥ずかしくてたまらない。

「そりゃ、星くんが忙しくてなかなか聞きづらいっていう事情は分かるよ。でも、流石に業務時間中全部いないわけじゃないでしょ? それに、周りの他の人にも聞けたよね」
「申し訳ありません」

「周りの人に聞いたけど、みんな分からなかったんです」とは言えなかった。