敏腕教育係は引きこもり御曹司を救えるか?

学に自分の新人時代のことを聞かれた阿久津。

「うーん、そうだね……私の時は、まだまだ教育体制が整ってないから、正直1人で進めていることが多かったかな」
「そう、ですか」

嘘をついても仕方がないのでありのままを話すと、学の細い形の良い眉が下がる。

「新人の時の経験は正直、辛かった。でも、だからこそ自分が教育係になった時はもっとこうしよう! って思って、色々と私なりに上司に提案してみたんだ」



◇◇◇



阿久津の新人時代。彼女の教育係に就いたのは、3年先輩の、あの悪名高い星 浩介《ほし こうすけ》だった。

「阿久津さん、初めまして。今日から一年間君の教育係をすることになりました、星です。俺のことはお兄ちゃんだと思って何でも頼ってくれていいよ」

初めて星と対面した瞬間、激しい緊張感で体が硬直したのを覚えている。まるで昔の柔道の試合で明らかに格上の相手と当たるような、ピリピリとした緊張感。

新社会人の阿久津にとって、目の前の星はとても「できる人」に見えた。

健康的に日焼けした浅黒い肌に、歯並びの良い歯がチラリと見える笑顔。スマートな立ち振る舞いは、いかにも出来る営業という感じがした。

阿久津の指導中、星はいつも誰かに話しかけられていた。

ある時は上司から「星くん、ちょっと」と呼ばれ別室で重要そうな話を時には1時間近くしていた。

またある時は星の同僚に「今度の若手部署横断プロジェクトの件について意見が聞きたい」と言われ長時間他部署に行っていた。

さらに、時には幹部の方から直々に「星くん! 今度の接待、君も来るよね⁈」と声をかけられ、彼は二つ返事で了承し、そのまま話し込んで……ということもあった。

その間阿久津はというと、星から「これね、この部署のマニュアルだから! よーく読んでおいて!」と紙束を渡されて、1人放置。

当時のマニュアルは、A4の紙に裏表で印刷した簡素な5ページしかない紙束とも呼べないような代物だった。

内容は一部抜粋するとこうだ。

『・関連グループ会社に対して社員総数と雇用区分を照会…4月になったらすぐやること。忘れると会社全体に迷惑がかかります。』

当時、阿久津はこの書き方について何も疑問に思わなかった。素直に書いてあることを受け止め、マニュアルがあることに感謝していた。でも今なら問題点だらけであることが分かる。


◇◇◇


「これはね、いつか佐伯くんがマニュアルを自分で作ったり、直接後輩に教えたりする時にも気をつけてほしいことなんだけど」

阿久津はそう前置きし、彼に語った。

「この業務は何のためにやるのか、というのをまずは前提として言わないとね。例えば、会社のHPで公開したり、株主総会の資料に掲載するため、とかね」

学は、早速教えたとおりメモを取り始めた。そして、うんうんと頷く。小さめの、少し神経質そうな字ではあるが結構上手だ。

「何故かというと、仕事のレベル感を意識して欲しいからなんだ。内部の打ち合わせや部署の会議で使う資料だったらある程度レイアウトは気にしなくても良いかもしれないけど、株主や取引先に見せる資料であれば、本当に完璧な状態で、見栄えも気にして作成しなければならないよね」
「そうですね、確かに!」

学は感心したようにハア、と息を吐いて、また勢いよくメモを取り始めた。

「言い方は悪いかもしれないけど、「何のためにやるのか」を意識することで、手を抜いて良いところと、絶対妥協してはいけないところが見抜けるようになるかも。
忙しくなると、どうしても全ての業務に100%の力は注げないからね。
だから、もし私が「何のためにこの仕事をやるのか」ってところを抜かして教えていたら、遠慮無く言ってね」
「はい!」

学のメモを取る手つきや、知識を吸収して嬉しそうにキラキラしている目。全てが眩しく、そして少し羨ましい。

阿久津のこうした指導方法は多分、後輩たちのためではなく、過去の自分のためにやっている。