なんだか嫌な予感はしていた。学の父・佐伯社長のあの言葉。

"父さん、色々考えておくからな"

初めて学が外に出た日、偶然会った社長が放った一言。その意味を、阿久津はずっと考えていた。

答えはその日、阿久津がオフィスに出勤中に出た。社長からまたチャットが来たのだ。

『阿久津さん、お疲れ様。学を外出できるまでにしてくれてありがとう。先日は本当に驚いたよ』

おそらく、このチャットに綴られている息子が外に出られて嬉しい気持ちは本物だろう。だが、なんかズレてる時があるんだよな。息子本位ではなく、自分のアクセサリーとしての息子と思っている感じがするというか。

そんなことを頭の片隅に置きながら、阿久津は社長に返信を打つ。

『学くんが自主的に外に出たいと思ってくれたタイミングで少しお手伝いをしたまでです。学くん、あれから私と一緒にスーパーに出かけたり、1人でちょっとだけですが近所を散歩もできたそうです。いずれは遠出もできるようになるかもしれませんね』
『そうか。それは楽しみだ』

これだけの近況報告なら微笑ましいのだが。社長が忙しい合間を縫ってチャットしてきたということはおそらく、何か他の用件もあるはずだ。そう考えていたところ、案の定社長から次なるチャットが。

『学が外出できるようになったということで考えてみたのだが、彼を我が社の新入社員として迎える手筈を整えている』

阿久津は絶句した。急展開すぎる。相手が社長でなければ、「ハア?」みたいな表情のスタンプを送りつけていたところである。

『それはもう、確定事項でしょうか? 学くんはまだ外に出たばかりで、いきなり商社で働くまでの心の準備は時期尚早かと』

嵐のようなタイピングで丁寧に反論してみるが、社長は聞く耳を持たない。

『すまないがもう進んでしまっている案件でね。この後山下課長から君にその件で話があると思います』
『承知いたしました』

もう進んでしまっているものは仕方が無いのでそう返事するしかなかった。だけど、学のことを思うと不安になり、思わず追加でチャットを送ってしまう。

『学くんが社会に出てやりたいことを聞いてみるのはいかがでしょうか? 彼が商社で働きたいのか、サラリーマンが向いているのかも分かりませんし』

やりたくないことを無理矢理やらせるなんて、引きこもりになる前の子供の頃と全く同じことをしているではないか、と言いたかった。

『そうは言っても、佐伯家の三男にアルバイトをさせるわけにもいかないんだ。この歳まで職歴の無い学に私が用意してやれるちゃんとした仕事は、この三友商事のポストしか無いんだよ』

社長はチャットを連投してくる。

『自分の子どもにも三友を支える商社マンになってほしいというのは私の長年の夢でもあった。長男、長女とそれぞれ立派に独立はしたが2人とも私の跡を継がないことになり、残念に思っていたところだった。もし学が私の後継として三友商事に入ってくれるならばこんなに嬉しいことは無いのだよ』

それ、自分のことしか考えてないな。自分の理想を息子に押し付けるなよ。

心の奥底から憤りが湧いてきて、阿久津は上手くチャットが打てなかった。

『学くんが今も絵を描いているのは知っていますか? 例えば、そういった方面で何か適職が無いか、一緒に探してみるのはいかがでしょうか?』

震える手で阿久津が提案をすると、社長は興味なさそうに一言。

『学はまだ絵を描いていたのか』

そしてさらに、否定。

『絵で食べていければ良いが、学がそんなこと出来るレベルではないのは私も知っているよ』

阿久津はそこでまた反論しようとするが、矢継ぎ早に次のチャットが社長から送られてくる。

『学の適職がそういったアート方面だとして、社会人経験というのはインスピレーションを得るためにもプラスになると思わないだろうか? 家に引きこもって絵ばかり描いているより、色々な社会の理不尽な面、楽しい部分など色々知っている画家の方が良いものを残せるんじゃないか?』

阿久津はこれに対して理論的に抗議することは出来なかった。きっと、絵ばかり描いていた画家もいただろう。だが、芸術の知識がなさすぎて上手い具体例が思いつかない。

『そもそも、学が商社で働くことを嫌がると決めつけている君もいかがなものだろうか』

畳み掛けるように社長からの反撃が。父親としてはどうかと思うが、仮にも三友商事の社長にまで上り詰めたこの人に、阿久津ごときが論戦で勝てるわけがなかった。

『まずは阿久津さんから、本件について学に聞いてみてくれないだろうか。彼の同意があれば、来月一日からでも中途入社ということで働いてもらおう』

来月って、たった2週間後では? そんな急に? とは思ったが、社長の言うことも最もなので、阿久津は了承する。

『承知いたしました。まず、学くんに意思の確認をしてみますね。ただし、もし彼が少しでも抵抗を見せたら、考えなおしてはもらえないでしょうか。単なる教育係の私が出過ぎた意見を申している自覚はありますが、よろしくお願いいたします』
『分かった、分かった。君も随分息子に感情移入してくれるようになったね。ある意味、嬉しい限りだよ』

そこでチャットは終わった。

気が重い任務を背負ってしまった。学にどうやって話そう。阿久津はため息をつきながらチャットアプリを終了したのであった。