敏腕教育係は引きこもり御曹司を救えるか?

学の母親の部屋はヴェルサイユ宮殿を小さくしたような感じの雰囲気だ。ヨーロッパの貴族が住んでいそうな金ピカをあしらった家具や調度品だらけの部屋。学のシンプルな部屋とは対照的だ。その部屋の床に阿久津は、全く似つかわしくないブルーシートを敷いていた。ここで今から学の髪をカットするためである。

家のことは好きに使えと社長からは言われている。しかし、会ったこともない学の母の部屋に入るのは流石に阿久津も罪悪感があった。だが、この部屋でなくてはいけない理由があった。この部屋には、美容室には劣るものの、髪をカットするために便利そうな、大きな鏡台があるのだ。千絵にどこで学の髪を切ってもらうか、と考えていた時に学がこの鏡台の存在を教えてくれた。環境は整えた。後は、千絵の腕にお任せだ。

部屋に案内された千絵は、部屋の豪華さと阿久津の準備の良さに感心した様子だった。テンションが上がったようで、傍らのロココ調のテーブルに仕事道具を並べ始める。

「それじゃあ学くん、早速やっていこうか。座ってください」
「は、はい。お願いします」
「カットもするけど、学くんには毎日自分で髪をセットできるようになってほしいんだ。せっかく髪を切っても、寝癖がついてたりボサボサしてたら台無しだよね。休日用のラフな感じと仕事用のきちんとめのやつ量は教えるから、頑張って練習してみてね」

千絵は言いながらケープを広げ、椅子に座った学にかぶせようと彼の前に出した。だが、美容室に久しく行っていないであろう学はその意味が何か分からなかったようだった。

「……ええと」
「あ、ごめんね。そこに袖を通すところがあるから、腕を入れれば良いんだよー」
「そうなんですか。ごめんなさい知らなくて」

恥ずかしそうにする学に、千絵は笑いかける。

「大丈夫。結構知らないお客さんいるよ? ね、沙耶」
「私もボーッとしてると腕通すの遅れる。あと、袖通すところ無いやつもたまに無い?」

阿久津も会話に加わった。いつも袖を通すと思っていると、カラー用のケープだけ袖が無い、被るだけタイプだったりする。正直あれはトラップだ。

「あるある! そしてお客さんが手を出してくれて、我々美容師は「あ、ごめんなさ〜い! これ袖無いやつなんですよね〜」ってなって気まずくなるというね」
「そうなんですか、美容室難しい……」
「いいのいいの! 難しく考えないで。お客さんなんだから、どんと構えて美容師の指示にしたがってれば間違いないよ。今度は表参道のうちの店にいらっしゃい」

怖がる学に、千絵は気さくに話しかける。これはあらかじめ阿久津が頼んでいたことだ。阿久津との会話には慣れてきた学に、新しい刺激を入れたかったのだ。だからいつもの接客よりフランクに接してほしい、というリクエストを千絵にはしていて、見事に彼女はそれをやってくれている。というより、普段阿久津に接している時と同じ、素の千絵のままという感じだ。

そのうち、だんだん学も千絵に心を開いてきたのか、彼女に自分から話しかけることも増えてきた。

「ハサミ捌き、凄いですね。僕はもうホントに、つまんでブチブチと細かく切るだけで」
「えっ、何? 学くん、今までセルフカットだったの?」
「ああ、はい。伸びてきたら適当にハサミとバリカンで切ってって感じです。すみません……僕のやり方でやったから切りにくいですよね」
「ううん、上手だなって思って。学くん、器用なんだね」
「え、そんなこと言われると思ってなかった……最近は伸ばし放題だったのでだいぶ切り立てよりマシになってるだかと思いますけど」

学は照れたように目を伏せた。

「そうそう、学くん器用なんだよね。料理も上手だし」
「いやそんな。大したことないです。阿久津さんに教えてもらっただけで」

阿久津と学のそのやりとりを見てか、千絵が無言で視線だけ送ってくる。言いたいことはなんとなく分かった。「お前らどういう関係?」ってところだろう。仕事上の関係かと思いきや、恋愛関係なのか? などと思っているのかもしれない。ご期待に沿えることは何も無いが、後で問い詰められることは覚悟しておこう。