阿久津 沙耶《あくつ さや》、31歳。そこそこの大きな会社でOLをしている。業務は人材育成部で教育係を任されている。仕事ぶりは至って真面目だが、プライベートではこのところ浮いた噂も無し。

そんな彼女が今、何年振りかの異性との急接近をしている。

ただし、相手の男との間には一触即発の雰囲気が流れ、阿久津は壁際に追いやられて動けないでいる。

「あんた誰だ。人の家に勝手に入って」

誤解です、と言いたいが、相手の男が持っている武器に怖気付いて言葉が出てこない。相手の武器は、新聞紙をぐるぐるに丸めた棒。部屋に出た害虫と大体同じ扱いか、と思う。凶器ではないからまだ安心だが、それでもこれだけ身長差があるから殴られたらそれなりに阿久津にダメージは入るだろう。

「……何か言え。言わないと、つ、通報するぞ」

よく見ると、丸めた新聞紙を持つ男の手も震えている。それを見たら少し勇気が出た。そうだ、相手も怖いんだ。というか得体の知れない人間が突然家に入ってきたのだから相手の方が阿久津が怖く思えているだろう。

「怪しいものではございません。佐伯 学《さえき まなぶ》さん。私、本日から貴方の教育係を拝命しました。阿久津沙耶と申します。さっきから何度もピンポンしたのですが、応答がなかったもので」
「教、育、係?」

相手の男・佐伯学はまるで初めて聞いた外国語のような調子で阿久津の言葉を繰り返した。

「あ、ちなみに、社長……お父様から『住み込みで』と仰せつかっており、今日から勝手ながらこちらのお宅にお邪魔することとなりましたので、どうぞよろしくお願いいたします」
「はあ⁈ この家に一緒に住むってこと⁈」

学が初めて大きな声を上げ、その時に初めて阿久津は彼の少しウェーブのかかった長い前髪から覗く目を見た。

あ、若っ……! 目元にシミもシワも一つも無い。良いなあー……などと羨ましがってる場合じゃない。こんなに若い、しかも事情ありの青年と今日から共同生活するのか。

大丈夫か? 本当に自分が、この若者を社会へ復帰させることなんて出来るのか? そして今のこの状況どうする? 新聞紙とはいえ、武器を持たれるほど警戒されている。押し込めてきた不安がどんどん押し寄せてきた。

阿久津がこんな状況になった理由を説明しようとすると、約1週間前に遡らなければいけない。