大好きな人にプロポーズされた時を多くの人は後になっても覚えているものだ。ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルも、それは変わらない。ただし彼女の場合、愛するテオドルス・ファン・ゴッホに求婚されて嬉しかったから、というだけではない。プロポーズを承諾後、テオの兄フィンセント・ファン・ゴッホが自らの耳を切断したという知らせが入り、驚いて失神するところだったためだ。
 ゴッホは南フランスのアルルに暮らしており、そこの病院に入院した。パリにいたテオは兄の元へ急行する。ヨハンナはパリに残った。婚約者の兄は初対面の女性に自己紹介されても話を聞ける状況ではなかったからだ。
 売れない絵描きのゴッホは、弟のテオに資金援助を受けて生活していた。「とても才能がある」とテオは力説している。ヨハンナには到底、信じられなかった。画家を称しているがゴッホの絵は一枚も売れたことがない。画商のテオが兄の才能を信じているので、真正面から「あなたのお兄さんは絵描きを廃業した方がいいと思うの」と言ったことはないけれども、内心は「夢を追わず、さっさと働け」と思っている。「私の夫の稼ぎを期待するな! この穀潰し!」と言いたくて仕方がない。
 テオは大金持ちでも何でもない。病弱な身体で必死に働いている。そして妻ヨハンナと兄を養っているのだ。やがてヨハンナが出産したので彼が扶養する家族は三人になった。さらに稼がねばならなくなったわけである。
 ゴッホへの支援を打ち切ったら、家計が楽になるのは間違いなかった。それでもテオはゴッホを見捨てない。甘すぎる! とヨハンナは腹が立った。夫は兄を天才だと言っているが、それは画才ではなく詐欺師の才能だろうと彼女は考えている。
 アルルの病院を退院したゴッホはパリ近郊で生活するようになった。短期間、テオとヨハンナの夫婦と同居したが、お互いに気疲れして駄目だったのだ。テオは精神的に不安定な兄の単身生活を不安視したが、ヨハンナは好ましく思った。無くなった耳の代わりに目の前で鼻か何かを剃り落とされたら、絶対に卒倒する。
 やがてゴッホは死んだ。自分の胸を拳銃で撃ち抜いたのだ。衝撃を受け、悲しみに浸る一方で、自分の予感が正しかったことをヨハンナは確信した。そして義兄の銃口が彼自身に向けられたことを神に感謝した。
 テオは兄の死に強いショックを受けた。心身共に衰弱していく。そして翌年、亡くなった。三十三歳の若さだった。
 寡婦となったヨハンナは実家に戻った。そのうち、信じがたい噂を耳にするようになった。あのゴッホの絵が評判になっているというのである。その後、ゴッホの絵は高値で売れるようになってきた。それにつれて世間の人は、画家ゴッホという人物への興味を持ち始めた。自分の耳をちょん切り、それから自殺したゴッホとは、何者だったのか? その疑問に対する回答が、ゴッホが家族や友人に当てた手紙の中にあるのでは……と思った編集者が動いたようで、ゴッホと手紙のやり取りをした様々な人物がゴッホの書簡集を出版し始めた。
 その中にヨハンナがいた。亡くなった夫テオはゴッホと頻繁に手紙のやり取りをしていた。それを公開したのだ。
 ヨハンナが発表した亡夫テオと義兄ゴッホの書簡集は大評判となった。それはゴッホの伝説を強化し絵の価格を上昇させる決定打となる。世間はゴッホを天才だと認めたのである。
 こうしてみると、ゴッホの天才性を信じたテオもまた天才だったように思える。一方その妻ヨハンナは夫より審美眼が劣っていたと言えよう。だが、ここまでゴッホがビッグネームになると、当時は誰も予想していなかったのではないか?
 見通しが甘かったのは何もヨハンナだけではなかったのだ。
 しかし彼女がゴッホの弟の嫁でなければ、ゴッホの伝説は現在の半分程度に落ち着いていたのではあるまいか?
 その場合、ゴッホの絵の値段が今の半分くらいに値下がりしていた可能性はあるだろう。
 彼女がいたからこそ、現在のゴッホがある。
 ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルよ、以て瞑すべし(←なんだそれ)。