「いらっしゃいませ。またお越し頂きありがとうございます」

伊織の顔を見るなり、バーテンダーはにっこりと微笑んで言う。
たった一度で伊織の顔を覚えてくれていたようだ。

「どうぞ、お好きな席へ」

促されて、伊織は前回と同じカウンターの端に座った。

「ようこそお越しくださいました。ここをお気に召して頂けたのでしょうか?」

おしぼりを用意しながら、にこやかに伊織に話しかけてくる。

「あ、はい。とても落ち着いた雰囲気で居心地も良く、一目で気に入りました」
「そうでしたか。前回はすぐにお帰りだったので、もしや落胆されたのでは?と案じておりました」
「いえ、そうではなく。実はあの時ピアノを弾いていらした方に気を取られておりまして」

え?と少し真顔になった後、バーテンダーの彼は急に明るい口調になる。

「ああ、あなたでしたか。妹から聞きました。最近知り合った本堂グループの御曹司が、あの時いらしてくださっていたと」
「あ、はい。でも彼女は最初にお会いした時とは全く雰囲気が違っていらしたので、同じ方とは思えず困惑していて…」
「あはは!それはそうでしょうね。美紅は見た目と中身が随分違いますし、色んなスイッチがありますから」
「スイッチ、ですか?」
「そう。いきなり武士になるスイッチ、勝気でじゃじゃ馬になるスイッチ、きりっと男前になるスイッチ、かと思えば急に優雅にピアノを弾いたり、ね」
「そう!そうなんですよ。いきなりスイッチ、まさにそれ!」

ずっと一人でもやもやしていた気持ちを理解してもらえ、嬉しくて伊織は思わず前のめりに頷く。

「いやー、あんな人初めてですよ。大和撫子七変化どころか怪人二十面相?ってくらいに、もう翻弄されちゃって俺、どうしていいか…」

一気にまくし立ててから、ハッとして慌てて口をつぐむ。

「し、失礼致しました。ご兄妹でいらっしゃるのに無礼なことを…」
「ははは!とんでもない。私もあのぶっ飛んだ性格の妹の話を誰かに共感してもらいたくてね。確かにおっしゃる通りですよ。怪人二十面相か、あはは!あなたもあいつに既に散々振り回されたのでしょうね」
「あ、いえ。その…」
「詳しく聞かせて頂きたいなあ。おっと、申し遅れましたね。私は美紅の兄の小笠原 (こう)です」
「こちらこそご挨拶が遅れました。本堂 伊織と申します」
「父から本堂グループについては色々と聞き及んでおりますよ。そう言えば、父はあなたのことを随分褒めていたな。あの調子だと、美紅と見合いをさせる気かもしれない」
「は、そ、そんな。私ごときが滅相もない…」
「ん?もしやもうそんなことが?」
「いや、あの、成り行きと申しますか」

言い淀む伊織に、やれやれと紘は腕を組む。

「うちの家族が散々ご迷惑をおかけしているようで。申し訳ないね、本堂さん」
「いえ、とんでもない。小笠原様にはいつも大変お世話になっており、感謝しております」
「そう言えば、本堂さんは本堂リゾートの副社長でいらっしゃるんですよね?いくつものホテルを手掛けていらっしゃるとか」
「いえ、副社長とは名ばかりで。実力が伴わずにお恥ずかしい限りです。今も新たに着手する計画が上手く進まず、行き詰まっておりまして…」

うつむいて肩を落とす伊織を見て、紘は少し考えてから明るく言った。

「本堂さん、今日は月曜日で来客も少ない。私で良ければじっくりお話をお聞かせください」

顔を上げた伊織に、紘はにこやかに頷いてみせた。