演奏が終わっても、私は最後の音を押さえる手を、鍵盤から離せないでいた。
 長く長く、余韻が伸びる。

 少し――ただほんの少しだけ、この曲が終わってしまうことを、寂しく思っただけだ。

 長い時間を置いてから、私は思い切って鍵盤から指を離した。
 項垂れた私の目には、鍵盤やズボンがすっかり濡れてしまっているのがよく映った。
 再び弾き始めてから、どこからだったか、思いが溢れて止まらなくなって、けれども演奏を止める訳にもいかなかったから、雫となって頬を伝い、滴り落ちてしまっていたようだ。

 すっかり脱力しきってしまった身体を、頭を、起こすことが出来ない。
 そうやって肩で息をする私の耳に、辺りを支配していた静けさを切り裂くように、様々な方向から拍手の音が聴こえ始めた。
 そこでようやく、何とかして頭を上げて、周囲を見回した。

 涼子さん、杏奈さん、そして佳乃もそこにいた。
 けれど、父の姿は見えない。

 今朝、家を出る時には確かにあった筈の笑顔は、どこにも見えない。
 仕事に帰ってしまったのだろうか。そう思い始めていた刹那。
 人波が、後ろの方からかき分けられるようにして開いてゆくと、そこから父の顔が見えて来た。
 何だ、来てたんだ。そう安堵すると同時に、どうしてそんな登場をするのかと、疑問も募る。
 けれどそれは、すぐに明確な答えとなって、私の前に現れた。
 ゆっくり、ゆっくりと近付く父は、車椅子を押している。そこには、

「おか、さ――」

 薄く、しかし確かに目を開いて座り、真っ直ぐに私の瞳を捉える、母の姿があった。
 柔らかい笑顔に、また感情が溢れそうになるけれど、喉が渇いて言葉が出ない。

「とってもいい演奏だったわ、陽和」

 母は笑いながら、少し枯れた声で言った。
 もう、堪えられなかった。
 私は慌てて席を立つと、母の元へと駆け寄った。
 すぐ目の前で跪いて、力いっぱいその手を取る。

「だ、大丈夫なの…⁉ どこか痛いところない? いつ目が覚めたの?」

 聞きたいことが多すぎて、順番もバラバラだ。
 あまりの剣幕に、二人とも呆気に取られて困ったような表情をしている。

「こらこら、陽和、美那子はまだ目が覚めたばかりなんだ。あまり興奮させない」

「もう、大丈夫よ、ひとみさん。それに眠ってたって、陽和の、ううん、皆の声も、演奏も、全部ちゃんと聴こえていたもの」

 嬉しそうに笑うと、母は手を握る私の両手に、もう片方の手を乗せた。

「ねえ、陽和。期末試験の話、担任の先生が結婚なさるって話、作家になるって夢の話、それから――『陽向』って子との約束の話、私にもう一度、詳しく聞かせてくれない?」

 そんな言葉には、少し驚いたけれど。
 確かに存在していた、向かい合って言葉を交わしたその姿を思い出しながら、私は、いつよりも明るく笑って答えた。
「もちろん! ちょっと、長くなるよ?」