翌日から、私は杏奈さんの家に泊まりこみでレッスンを受け始めた。
 二次をも突破するようなことになれば、本選まではそこから三日しかない。落選するか進出するか、その確かな結果が出るまでは、先のことまで考えて、寝ても覚めてもピアノのことにだけ専念しなければ、とても追いつけない。
 二次は、一次よりも更に何倍も狭い門なのだから。

「また右手に左手が釣られてる! 左手はもっと流れるように、右手で抑揚をつけなさい! ベースの音で主旋律を邪魔しない! 小さくすればいいんじゃないの、双方のバランスで見なさい! ピアノからクレシェンドの次はフォルテじゃない、大きくし過ぎ! 違う、音を抜くんじゃないの、弱くは出さない! 芯は保ったままで小さく出すように意識! ほらまた! 一曲全体のバランスを見て考えなさい! はい頭からやり直し!」

「は、はい…!」

 怒号のような指摘が飛び交う教室。
 指導の域を超えそうな声色にも、限りある時間の中、私は何とかして食らいつく。
 一歩も引きさがることは許されない。
 先のことは考えないで、ただ今この瞬間、杏奈さんの指示を一言一句聞き逃さず、リアルタイムで反映させていくことだけに注力する。
 間違えてはやり直し。聞き落としたらやり直し。刷り込めなければやり直し。
ただひたすらに弾いて、読んで、その繰り返しだ。

 休息は、夕餉からその先だけ。よく食べ、ゆっくりと入浴して頭と身体を休め、整える。
 そうしてクリアになった思考でもって、一日受けたことを精査し、眠りにつく。
 杏奈さんはしっかり寝て休めと言うけれど、眠ってしまえさえすれば、あとは杏奈さんの与り知らない世界。
私と陽向、二人だけの時間だ。
 あの空間で、記憶の中に眠る杏奈さんから受けた指示の数々を、今度は陽向から受ける。

 一日目。なんとか着いて行くのがやっとだった。

 二日目。指示を反映するだけの余裕も出てきて、夜になりレッスンを終える頃には、杏奈さんの指示が聞こえるとすぐに対応できるだけの引き出しも増えた。

 涼しい室内であって汗をかきながら、杏奈さんも私につきっきり。
 食事、お手洗い、入浴、珈琲ブレイク――それ以外の時間は、全て私の為に使ってくれた。