涙も枯れて冷静になると、私は一気に芽生えた羞恥心から、もがくようにして陽向から離れた。
 何だか恥ずかしくて、目が合わせ辛い。

「頑張ってね、陽和。ずっと、応援してるから」

「何、いきなり。改まってさ」

「いいや、ふと思っただけだよ。君なら大丈夫だ」

「何よそれ、もう。大丈夫ってどういうことよ」

「うーん。色々と?」

「えー、ピアノのことじゃないの?」

「あはは! うんうん、そうさ、ピアノのことだとも。陽和なら出来る。きっと大丈夫だ」

「もう、気持ち悪いなぁ」

 快活に笑う陽向に釣られて、私もまた笑い出してしまう。
 何の含みもないように思えた笑顔だった。
 けれどもどこか、切ない香りもする。
 考えすぎだ。
 深い意味はない。
 そう飲み込んで、私はまたピアノに向き直る。
 鍵盤に指を置いて、ペダルに足をかける。そんな時、陽向が「そう言えば」と言葉を挟んだ。

「一次予選を突破出来たとして、二次の最後に弾く自由曲は決めたのかい?」

 陽向の尋ねるそれは、もう目先に迫っているコンペについて。
 第一次予選では、全て運営側の用意する曲目から選択して演奏するものだけれど、その数日後の二次予選では、課題曲の他、いずれとも重複しない一曲を自分で決められるのだ。

 陽向が尋ねるのは、その最後の一曲のこと。コンペなのだから、気持ちよりも、自身で最高のパフォーマンスが出来る一曲、要は奏でやすいものを完璧に仕上げるべきだろうかと、悩んでいたのだ。
 けれどももう、私の意志は固まっている。
 迷うことなく、陽向に告げた。

「練習曲作品十ー三、『別れの曲』でいくよ」

 一時は大嫌いになろうとして、でもやっぱり大好きで。
 いつか、晴れの舞台で奏でられたらと願っていた一曲。
 誰より憧れて、誰より大好きな母に聴かせたいと心に決めていた、そんな一曲。
 気持ちよりもパフォーマンスを――そうやって迷っていた筈が、結局は気持ちで勝負することを選んだ私に、陽向は「やっぱりね」と笑った。

「逆に、それ以外の選択肢が陽和にあったの?」

「ううん、何にも。悩んでたのがバカバカしいくらいだよ。いくら考えたって、気持ちもパフォーマンスも、これならどっちも一番だからね」

 何度も聴き、何度も母の演奏で視た。
 新しく開拓していくより、それより上手く奏でられるであろうことは明白だ。
 しかしそれは、曲名や作者を知らずとも、誰もがどこかで聴いたことのあるくらいに有名な曲だ。だからこそ、下手な誤魔化しやオリジナリティが通用し辛い。

 演奏自体、まずは一つの軽いミスもないくらい完璧に仕上げた上でなければ、自分なりの歌い方が許されない。
 考えなくても弾けるほどに身体で覚え、手癖くらいに馴染ませていないと、コンクールの場で弾くにはあまりに無謀だ。
 超絶技巧を要求されるような難しい曲を選ぶより、ともすればこちらの方が評価を受け辛い。

「難しいことぐらい分かってる。でも、やっぱりこれなんだよ。二次も突破して本選に進める人なんて、それこそプロ顔負けの演奏をするような猛者ばかり。私は、何年も何年も研鑽を重ねて来た訳でもないんだから。でも――だからこそ、万が一にも一次予選を突破出来たなら、どうせだったら一番弾きたい曲をやりたいの。大好きな曲を、お母さんの為に……きっと、本選なんて夢でも無理だから」

「随分と弱気な姿勢だね」

「ううん、強気も強気だよ。一次突破した後のこと話してるんだよ? 本格的にピアノに触り始めて数ヶ月ってお子様がね。何なら舐めてかかってるだろって怒られそうなくらいだよ」

「あはは、確かに。全国にひしめく猛者たちを舐め腐ってるよね」

「でしょ? だからだよ。だから私は、お母さんの為に弾きたい。予選とか本選とか、そんなこと関係なくね。まだ涼子さんと杏奈さんにしか聴かせられてないし。あ、もちろん陽向もね」

「そう言えば。家で練習をしている時には、アレだけ弾かないようにしてるよね」

「本番でビシッとかっこいい姿を見せたいからね」

「なるほど。弱気だなんて言って悪かった。強気どころか、熱意が溢れてるじゃないか」

 もちろん。私は力強く頷いた。
 何を言おうと、誰にどんな選択肢を並べられようと、私はもう気持ちを曲げない。そう決めた。
 何より大切にしている気持ちは、私だけのものだ。

「決まったなら、早速練習だ。先生が寝ている間に、あっといわせてあげないと。不甲斐ない結果は、僕だって許さない」

 そんなこと、言われるまでもない。
 寧ろ気合入るというものだ。

「現実は現実だろうとも思えたから、あとはそれをぶっ壊すぐらい頑張らないと」

「その意気だ。じゃあ、また頭から」

「うん!」

 気合十分に、私は意気揚々と向かい合う。
 そうして一音一音、並々ならぬ集中力を注いで奏でていく。
 隣では陽向が、譜面を捲り、時に指摘を入れながら、

「別れの曲、か」

 一人、そんなことをぽつりと呟いていた。