奥へ奥へと進んだ先。
まるで舞台のように開けた場所に、『それ』はあった。
お世辞にも、感動の再会、とは言えない。
この空間にある他のものと同様、澄んだ水色に光が反射している幻想的な色をしているというのに。
私の目には、『それ』が綺麗なものには映らなかった。
ただただ心地が悪く、今すぐにでもここから消えてしまいたい気持ちにすらさせるほど。
「どうして、こんなところに……」
思わず情けない声がもれた。
どうして声は、
「なんで、グランドピアノなんか……」
こんなところへと誘ったのだろう。
つい数分前まで、胸は高鳴り、心は踊り跳ねていたというのに。
声の話す言葉を信じるのなら、私のことなら何でも知っている筈なのに。
どうしてわざわざ、こんなところへ。
吐きそうだ。引き返そう。素直に、そう思った。
『陽和』
来た道を引き返そうと歩み出した足が止まる。声はすぐ近くから――グランドピアノの方から響いていた。
思わず振り返る。けれど、そこに誰かの姿はない。
「……ねぇ、悪趣味じゃない? 私のこと知ってるんでしょ? どうしてこんなところに連れて来たの?」
『嫌いかい?』
間髪入れないそんな質問に、私は思わず言葉を呑んだ。
嫌いかどうか。そんなのに、決まっている。
「大っ嫌い! …………じゃ、ない……はず。多分」
歯切れの悪い答えだけれど、紛れもない私の気持ちだ。
今までずっと、ピアノなんて大嫌いだった。大嫌いに、なろうとしていた。
けれど、心の底から好きだと思っていたものは、そう簡単には嫌いになれなかったらしい。
私はピアノが好き。それが、本当の気持ちだ。
『そうだろうね。君が嫌う筈がない。だから僕の言葉には、怒っているんじゃなくて、悲しんでいるんだ』
「また随分と見透かしたように言うね」
『違うかい?』
「ううん、その通り。まったくもって大正解だよ」
私は半ば呆れて、肩を落としながら答えた。
『そりゃあそうだ。母さんに褒めて貰えて、君自身も更に深めていきたいと願ったものがピアノだ。それがまさか、あんな理由から離れることになって――悲しかったんだ』
「君、お母さんのことも知ってるの?」
『言ったろう、君のことなら産まれる前から知ってるって』
声は爽やかに言う。
答えにはなっていないけれど、別段それが気になった訳でもなかったから、私はそれ以上追随することはなかった。
「それで? そろそろ答えてもらってもいいかな? どうしてここに連れて来たの?」
大きく踏み込んで、尋ねてみた。
本当は、少しだけ怖かった。これについて何か話を聞くことが。
声は答えない。数秒。数十秒。幾らか静寂が続いた後でようやく、声は口を開いた。
『僕が君の眼になる。耳になる。分からないことは、ここで全部分かるようになるから』
何を言っているのか分からなかった。私は何も返せず、黙ってしまった。
それは、敢えて尋ねなかった質問への答えのようなものだったから。
――私はピアノを弾けないのに、どうしてこんなところへ連れて来たのか――
胸が痛くて飲み込んだ言葉への答えのようだった。
「どういうこと?」
『弾くんだよ。ピアノを。それを、触るんだ。ここでなら弾ける。弾くことが出来るんだ』
「無理だって、何言ってるの!」
私は強く否定した。
望んでいたことがすぐ目の前に並べられている。けれどもそれは、苦しくて、一度はっきりと手放したものだったから。
怒鳴ったのは、手に入れられるのかもしれない、そんな期待を少しでも見させてくる声に、苛立ちを覚えたからだ。
ここは夢の中。夢の中だからこそ、現実で味わえないことで苦しみは増す。
いくら望んだって、それが出来ないことに変わりがないのは、もう何度も試して分かっている。楽譜を読む度に気持ちが悪くなって、吐いてしまうこともあった。その度姿勢を保とうとピアノに手をつくけれど、悲しくて仕方がなくなって、足元が覚束なくなる。
向こうでは弾けない。弾くことが出来ない。
「知ってるんでしょ、私のこと! おかしいじゃん! 分からないの、弾けないの…! なのに、どうして?」
『弾けるよ』
声は、これ以上ないくらいに落ち着いた音で言った。
予想していなかった声音に、私はつい言葉を止めてしまう。
『弾けるよ。ここでなら、好きな曲を、好きなだけ。陽和なら大丈夫さ』
「私ならって……ここで弾けたって、意味なんか……」
もうほとんど言いかけたようなものだったけれど、少しでもはっきりと言わなかったのは、私自身がそれを全て認めてしまいたくなかったからだろう。
私の考えすら読めてしまっているようなこの声が、答えこそ示してくれなかったけれど、否定もしなかったということに、どこか希望を見出そうとしてしまったのかもしれない。
「い、今更、夢の中だからって、どうやって弾けばいいって言うの? ここに楽譜なんてあるの?」
『いいや。読むんだ。陽和自身が』
「私自身って、まさか向こうで読んで来いとか言わないよね? 夢なんでしょ? それくらい何とかしてよ」
『分からなくても、気持ちが悪くなっても、まずは楽譜を読むんだ。一つ一つ、音符も記号も全て、何も残さずしっかりと。じっくりとね』
「何で向こうで読まなきゃいけないのよ。気持ち悪くなるんだってば」
『そうなってしまったとしても、だ。酷いことを言っているのは承知してる。本当に嫌なら、別に何もしなくて構わない。けれど、君が少しでもそれを望むのなら、何でもいいから読んでみるんだ。簡単なものでもいい』
「難易度なんて関係ないんだってば。そんなことしたって、私……」
『大丈夫。何たって、ここは夢の中だ。全てが心のまま、思うままに出来るんだ。必要なのはどうありたいか、そしてどうなりたいか。心の在り方さ』
「心の、在り方……」
その言葉が、胸にささった。いやに食い込んで離れない。
どこかで、自分から諦めていた。
楽譜が読めないからって、もう無理なんだって諦めて、勝手に線を引いて、それを超える程の努力は自分でもやったことがなかった。
しかしもし――もし、願ってもいいのなら。
もう触らないと誓ったピアノに、一度でも触れて良いのなら。
夢でも良い。この世界だけで感じられる、泡沫の心地でも構わない。
「……弾きたい。私、弾きたい」
はっきりと告げたつもりの言葉は、絞り出したように儚い。
それでも、声の主にはちゃんと届いたようで、『よく言った』とはっきり答えてくれた。
褒めるように大きく頷いている様子まで、見て取れるようだ。
『もう一度だけ言うよ。目を覚ましたら、楽譜を読むんだ。しっかり、じっくりとね。そうすれば、またこっちに来た時、好きなように練習が出来るから』
「分かった。あ、でもここにはどうやったら来られるの?」
『僕が君を迎えに行く。強く、この風景をイメージするんだ。そうすればまた、僕の方から君のことを呼んであげるから』
「うん。ありがと。って、何者かも分からない相手に言ってもなぁ」
『まぁ、そうなんだけどね』
声は、少し抑揚のない音で言う。
『そろそろ夜明けだ。まずは、思いつく好きな曲を視てきてごらん』
まるで舞台のように開けた場所に、『それ』はあった。
お世辞にも、感動の再会、とは言えない。
この空間にある他のものと同様、澄んだ水色に光が反射している幻想的な色をしているというのに。
私の目には、『それ』が綺麗なものには映らなかった。
ただただ心地が悪く、今すぐにでもここから消えてしまいたい気持ちにすらさせるほど。
「どうして、こんなところに……」
思わず情けない声がもれた。
どうして声は、
「なんで、グランドピアノなんか……」
こんなところへと誘ったのだろう。
つい数分前まで、胸は高鳴り、心は踊り跳ねていたというのに。
声の話す言葉を信じるのなら、私のことなら何でも知っている筈なのに。
どうしてわざわざ、こんなところへ。
吐きそうだ。引き返そう。素直に、そう思った。
『陽和』
来た道を引き返そうと歩み出した足が止まる。声はすぐ近くから――グランドピアノの方から響いていた。
思わず振り返る。けれど、そこに誰かの姿はない。
「……ねぇ、悪趣味じゃない? 私のこと知ってるんでしょ? どうしてこんなところに連れて来たの?」
『嫌いかい?』
間髪入れないそんな質問に、私は思わず言葉を呑んだ。
嫌いかどうか。そんなのに、決まっている。
「大っ嫌い! …………じゃ、ない……はず。多分」
歯切れの悪い答えだけれど、紛れもない私の気持ちだ。
今までずっと、ピアノなんて大嫌いだった。大嫌いに、なろうとしていた。
けれど、心の底から好きだと思っていたものは、そう簡単には嫌いになれなかったらしい。
私はピアノが好き。それが、本当の気持ちだ。
『そうだろうね。君が嫌う筈がない。だから僕の言葉には、怒っているんじゃなくて、悲しんでいるんだ』
「また随分と見透かしたように言うね」
『違うかい?』
「ううん、その通り。まったくもって大正解だよ」
私は半ば呆れて、肩を落としながら答えた。
『そりゃあそうだ。母さんに褒めて貰えて、君自身も更に深めていきたいと願ったものがピアノだ。それがまさか、あんな理由から離れることになって――悲しかったんだ』
「君、お母さんのことも知ってるの?」
『言ったろう、君のことなら産まれる前から知ってるって』
声は爽やかに言う。
答えにはなっていないけれど、別段それが気になった訳でもなかったから、私はそれ以上追随することはなかった。
「それで? そろそろ答えてもらってもいいかな? どうしてここに連れて来たの?」
大きく踏み込んで、尋ねてみた。
本当は、少しだけ怖かった。これについて何か話を聞くことが。
声は答えない。数秒。数十秒。幾らか静寂が続いた後でようやく、声は口を開いた。
『僕が君の眼になる。耳になる。分からないことは、ここで全部分かるようになるから』
何を言っているのか分からなかった。私は何も返せず、黙ってしまった。
それは、敢えて尋ねなかった質問への答えのようなものだったから。
――私はピアノを弾けないのに、どうしてこんなところへ連れて来たのか――
胸が痛くて飲み込んだ言葉への答えのようだった。
「どういうこと?」
『弾くんだよ。ピアノを。それを、触るんだ。ここでなら弾ける。弾くことが出来るんだ』
「無理だって、何言ってるの!」
私は強く否定した。
望んでいたことがすぐ目の前に並べられている。けれどもそれは、苦しくて、一度はっきりと手放したものだったから。
怒鳴ったのは、手に入れられるのかもしれない、そんな期待を少しでも見させてくる声に、苛立ちを覚えたからだ。
ここは夢の中。夢の中だからこそ、現実で味わえないことで苦しみは増す。
いくら望んだって、それが出来ないことに変わりがないのは、もう何度も試して分かっている。楽譜を読む度に気持ちが悪くなって、吐いてしまうこともあった。その度姿勢を保とうとピアノに手をつくけれど、悲しくて仕方がなくなって、足元が覚束なくなる。
向こうでは弾けない。弾くことが出来ない。
「知ってるんでしょ、私のこと! おかしいじゃん! 分からないの、弾けないの…! なのに、どうして?」
『弾けるよ』
声は、これ以上ないくらいに落ち着いた音で言った。
予想していなかった声音に、私はつい言葉を止めてしまう。
『弾けるよ。ここでなら、好きな曲を、好きなだけ。陽和なら大丈夫さ』
「私ならって……ここで弾けたって、意味なんか……」
もうほとんど言いかけたようなものだったけれど、少しでもはっきりと言わなかったのは、私自身がそれを全て認めてしまいたくなかったからだろう。
私の考えすら読めてしまっているようなこの声が、答えこそ示してくれなかったけれど、否定もしなかったということに、どこか希望を見出そうとしてしまったのかもしれない。
「い、今更、夢の中だからって、どうやって弾けばいいって言うの? ここに楽譜なんてあるの?」
『いいや。読むんだ。陽和自身が』
「私自身って、まさか向こうで読んで来いとか言わないよね? 夢なんでしょ? それくらい何とかしてよ」
『分からなくても、気持ちが悪くなっても、まずは楽譜を読むんだ。一つ一つ、音符も記号も全て、何も残さずしっかりと。じっくりとね』
「何で向こうで読まなきゃいけないのよ。気持ち悪くなるんだってば」
『そうなってしまったとしても、だ。酷いことを言っているのは承知してる。本当に嫌なら、別に何もしなくて構わない。けれど、君が少しでもそれを望むのなら、何でもいいから読んでみるんだ。簡単なものでもいい』
「難易度なんて関係ないんだってば。そんなことしたって、私……」
『大丈夫。何たって、ここは夢の中だ。全てが心のまま、思うままに出来るんだ。必要なのはどうありたいか、そしてどうなりたいか。心の在り方さ』
「心の、在り方……」
その言葉が、胸にささった。いやに食い込んで離れない。
どこかで、自分から諦めていた。
楽譜が読めないからって、もう無理なんだって諦めて、勝手に線を引いて、それを超える程の努力は自分でもやったことがなかった。
しかしもし――もし、願ってもいいのなら。
もう触らないと誓ったピアノに、一度でも触れて良いのなら。
夢でも良い。この世界だけで感じられる、泡沫の心地でも構わない。
「……弾きたい。私、弾きたい」
はっきりと告げたつもりの言葉は、絞り出したように儚い。
それでも、声の主にはちゃんと届いたようで、『よく言った』とはっきり答えてくれた。
褒めるように大きく頷いている様子まで、見て取れるようだ。
『もう一度だけ言うよ。目を覚ましたら、楽譜を読むんだ。しっかり、じっくりとね。そうすれば、またこっちに来た時、好きなように練習が出来るから』
「分かった。あ、でもここにはどうやったら来られるの?」
『僕が君を迎えに行く。強く、この風景をイメージするんだ。そうすればまた、僕の方から君のことを呼んであげるから』
「うん。ありがと。って、何者かも分からない相手に言ってもなぁ」
『まぁ、そうなんだけどね』
声は、少し抑揚のない音で言う。
『そろそろ夜明けだ。まずは、思いつく好きな曲を視てきてごらん』