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 殺風景な、雑然とした私立探偵事務所。亀田はデスクで煙草を吹かしながら、訪れたばかりの依頼人と対座していた。


 亀田は、探偵の仕事に収入的に限界を覚え、最近では夜間のコンビニバイトを始めた。従って今日は酷い睡眠不足だった。



 本当に久しぶりの依頼人なのだった。緊張もひとしおだ。


 依頼人は近藤和子という四十三歳の婦人で、かなり目立つ美貌だった。



 ところが彼女は挨拶を済ませてから、中々本題に入ろうとしなかった。亀田以上に緊張していた所為かもしれない。


 11月4日土曜日、午後1時半のことだった。


「あのわたくし、実は迷っているんですの」


 和子は苦悩で、眉間に縦皺を寄せていた。亀田は彼女をリラックスさせようと試みた。


「此処に来られる方は迷っている人ばかりですよ。少し深呼吸してみましょうか」



「はい……」


「それで結構ですよ。少し落ち着かれたでしょう」 


「ええ」


「探偵事務所という場所は胡散臭いですからね。初めての方は大抵まごつかれます。此処は悩み事の相談の場ですから、和んで頂いて良いんです」


「有難うございます」


「で、さっそくになりますが、そろそろ御依頼の件を伺いましょうか」


 近藤和子はハンカチを出して、額を拭った。


「警察に相談すべきかどうか、悩んでおりましたの。でも何も確証はございませんし、主人の迷惑にもなることですから。もしわたくしの間違いであった場合」


「御主人のお名前は」


「近藤二郎、今年で48歳になります。現在は大隅の方で、農業を営んでおります」


「近藤二郎、何処かで聞いたような名前ですね」


 和子は頷いた。


「そうかもしれません、主人はつい最近迄映画のプロデューサーを致しておりましたから」


「矢張り、あの近藤氏ですか。鹿児島に在住しておられるんですか。しかも農業従事」



「ええ、東京から移住してまいりました。僅かばかりですが、サツマイモ等を栽培致しております」



「映画のお仕事は現在は全くですか」



「はい、完全に引退致しました」


「残念ですね。私は近藤さんのホラーやミステリー映画のファンでした」



「映画は映画監督の作品で、主人は唯仕事をまとめ上げるだけでした」



「御謙遜ですな」



「いいえ、現在の二郎は何処にでも居る農民の一人ですわ」



「その平凡な筈の二郎氏が、今何故警察沙汰に」



「そうなんです。主人は3か月程前からおかしくなったんです」



「どんな風にですか」



「急に人が変わったみたいに短気になって、ルカーチに没頭し始めたり」


「ルカーチとは、歴史と階級意識のルカーチですか」



「はい、前はなかった独り言をぶつぶつ洩らしたり」



「どんな内容の」



「はい、暴力革命がどうとか」



「暴力革命ですか?ルカーチの論文にあるものですかね」


「はい、そうだと思います。で、それを肯定する、必須だとか、申しますの」



「独り言だけですか」



「いいえ、先日何処からか、刃渡りの長いナイフを入手してきました。私、恐くて」



「成る程」


 亀田は煙草を灰皿で揉み消した。



「御主人が恐い。先程確証がないと仰有っていましたが、一体どのような憶測を抱いていらっしゃるのですか」



「実は」和子は肩を震わせた。「昨日、自宅近くで、野良猫が死んでおりました。血を大量に流していたので、刃物で切られたのかと」



「それが御主人の仕業ではないかと仰有るんですね」



「はい、はっきり申し上げて、主人は何か良からぬこと、テロのようなことを計画しているのではないかと思いますの。間違っているかもしれませんが」



「成る程ですね」



 亀田はもう一本煙草に火をつけた。



「昨日以降、御主人のナイフは御覧になりましたか」



「いいえ、何処かに隠しております」



「特別に昨日変わった様子はありましたか」




「はい、大声で怒鳴り散らしておりました。」




「何と仰有っていましたか」




「遂に遣るぞ、プロレタリアの勝利だとか、申しておりました」



 和子は再度、肩を震わせた。



「分かりました。御主人の調査を依頼なさるのですね」



「はい」



「規定の料金は、机上の表を御覧ください。ご異存はありますか」



「いいえ、ございません」



「それでは、家族構成をお聞かせ願えませんか」



「わたくしと、主人、高校生の息子、良平の三人暮らしです」



「そうですか、お手数ですが、ご住所を此処に記入して下さい。ペンは其処にあります」



「承知しました」



「それで良しと。で、報告書を作成致します。受け取りにいらして頂きたいのですが」




「分かりました」



「大隅からだと大変ですね。大丈夫でしょうか」



「大丈夫ですわ」


「また、鹿児島に出て来られますか。フェリーをご利用ですね」



「はい」



 亀田は煙草の煙の輪を吐いた。



「私は御主人のファンだと申し上げましたが、全作品を観ている訳ではありません。何か革命を描いた作品がありますか」



「そうですわね、毛沢東の出てくる作品がございます。ほんの少しですが」



「作品名は」



 和子は映画のタイトルを挙げた。亀田はそれをメモした。


「御主人は共産党の支持者ですか。それ自体は何も問題ありません、勿論」



「赤旗を購読しております」



「矢張りそうですか。で、暴力革命でない革命についてはどう仰有っていますか。市民的抵抗というんですかね。現代では此方だと思うんですが」



「あの、日本共産党は生温いと常々申しているようです」



「成る程。御主人は過激派との付き合いなどありましたか」



「わたくしの知る限り、ないと思います。主人が大学生の頃は、もう学生運動は流行りませんでしたから」



「そうですか、何か組織と連絡を取ったりはしていらっしゃらない」



「主人は平凡な農家ですから、ないと思いますけど。私の知らない一面がないとは言い切れません」



「調べてみましょう。で、遠方はるばる鹿児島に移住なさった訳ですが、此方に親戚か知人がいらっしゃるんですか」



「親戚は居りません。矢張り農業をしている木村貞夫という主人のお友達がいらして、引っ越しとか農地取得に色々とお世話になりました」




「木村貞夫さんですね。お友達ですか、木村氏の住所をご存知でしたら、矢張り此方に書いていただけませんか」


「承知致しました」




      2


 近藤和子が帰ると、亀田は先ず一息入れた。CDラックから、アクセプトのレストレスアンドワイルドとボールトゥザウォールを取り出して、最初にレストレスアンドワイルドを掛けた。



 馴染み深いファストアズアシャークが始まった。インスタントのブラックコーヒーを作り、一気に呷った。昨夜コンビニバイトに従事した所為で、寝不足なのだった。


 矢張りヴォーカルはウドに限ると思った。現在のアクセプトも決して悪くないが、本当にドスの利いた声はウドの方に軍配が上がる。



 屢々ネオナチと揶揄されるアクセプトだが、現在の取り組むべき問題も今時ルカーチなのだった。



 独特の最初期パワーメタルが展開されている。矢張りハロウィンなどではない、アクセプトこそジャーマンメタルだと思われた。



 コーヒーを味わいながら、スマホに手を伸ばした。



「もしもし叔父さん」



 掛けた相手は安田警部補だった。安田は従兄弟なのだが、叔父さんと呼んでいる。



「どうした?」



「何か事件はありませんでしたか」



「何処から情報を聞き付けた?」




「ということは、何かあったんですね」




「ああ、殺人事件だ」



「何ですって、今日のことですか」



「今しがただ。もうニュース速報も出ている」



「殺害されたのは男性ですか」



「ああ、何者だと思う」



「大学教授とか」



「当たりだ。鹿児島大学の教授だ。一体どんな情報を掴んでいるんだ」




「不審者情報というだけです、今のところ。まだ調査に着手してないんです。久しぶりの仕事だから、探偵料を逃したくない」




「御前の仕事に、守秘義務などくそ食らえだ。此方は警察で、殺人事件の捜査をしているんだ」




「でもまだ何も掴んでいない。偶然の一致かもしれない」




「いや、私は御前の身を案じているんだ。拳銃も携帯していない日本の私立探偵が凶悪犯に対峙出来るか。危険過ぎる。少しは仕事を選べ」





 亀田は苦笑した。



「大丈夫、私は全くの独り者だから、例え死んでも、悲しむ者なんか居ない。危険を承知でこの職を選んだんですから」



「被害者は合田富雄、50歳。刃渡りの長いナイフで腹部や胸を30個所以上刺されている。殺し方が猟奇的だ。鹿児島はまたパニック状態を起こすだろう。御前は危険を充分認識していない」




「仕事は仕事です。やばくなったら当然協力を仰ぎます」




「御前なあ、運動音痴なんだろう。警察官は護身術を磨くのに時間を割いている。御前も少しは護身術を習うべきだな」



「はいはい、私は何事もいい加減。正直、楽をしたいからこの職を選んだんですから」




「本当に困った奴だ」



「私は好きな音楽に没頭して、酒でも食らっていたいんです。どうせ人生、ろくなことないですからね」




「では、調査を進めたなら、協力しろよ」




「了解です」



     3




 亀田は、ボールトゥザウォール迄聴き終わると腰を上げた。スマホを取って、木村貞夫の番号に掛けた。



 コールが続くが、相手はでない。やがて現在電話に出ることが出来ません、との自動音声。再度掛け直した。今度は数回で木村は出た。



「はい、木村ですがどなたでしょう」



「確かにご存知ない電話番号から掛けております。わたくし、亀田と申します」



「はい、亀田様、どのようなご用件ですか」



「単刀直入に申し上げます。私は近藤和子さんから雇われた私立探偵です」




「探偵さんですか。私に何か」



「御主人、二郎氏の様子が、3か月程前から尋常でないと、奥さんは非常に心配しておられます。木村さんが何かご存知ではないかと」




「そうですか、そうですな、それは心当たりがないでもないが」



「それをお聞かせ願えませんか」



「電話ではちょっと、済みません」




「ではお宅にお伺い致します」




「結構ですよ。近藤氏の家の近所です」




「住所は存じております。今日は御在宅でしょうか」




「はい」



「それでは伺います」



 亀田は電話を切ると、準備を始めた。昼間はまだ暑いが、朝晩は寒い気候だ。ジャケットと携帯用充電器を取った。敢えてトレンチコートは避けた。11月になるのに、南国はまだ昼の最高気温が25℃超えである。



 廃車寸前の中古車に乗って、桜島フェリーを利用した。船が鹿児島市を離れると、船内名物のうどんを食べた。



 大隅半島に到着すると、田畑の中を制限速度ぎりぎりで走った。



 車内ではフェイツウォーニングをフルボリュームで聴いていた。




 緑が目に鮮やかだった。気候も薩摩半島とは幾分異なる様子だ。




 木村貞夫の自宅前に到着した。大きな屋敷ながら、余り目立たない農家らしい二階建てだった。


 玄関のブザーを鳴らした。



「はい、亀田様ですか」



 貞夫本人が現れた。家内に招じ入れられた。


 亀田は応接間の柔らかなソファーに腰を下ろした。




「早速ですが木村さん、事態は割合に緊急かもしれません。近藤二郎氏について話して頂けませんか」



「近藤さんがおかしくなったということでしたか、どんな風にでしょう」




「急にルカーチに傾倒し始めて、どうやらテロの類を計画しているのではと、疑われるのです」




「今更ルカーチですか。おかしいですね。近藤さんとは若い頃、散々その手の話はしました。若い頃、二人で同人誌を遣っていて、民主文学の傘下に入ったんです」




「奥さんはそのことをご存知ですか」




「さあ、多分知らないでしょう。昔の話です」



「その頃、過激派との関係はありましたか」




「いいえ、ありませんよ。直後に近藤さんは映画の世界に入っていかれて、多忙になられました」




「当時、革命の話はなさっていたんですね」



「していました。しかしそんなに物騒な話はありませんでした。唯、共産党支持を確認し合っただけで」




「近藤さんの変化について、心当たりがおありだとか」



「それは全く別の話です」




「何でしょう」




「弱りましたな。奥さんは知らないことでして」




「何ですか」



「浮気ですよ。私立探偵とお聞きして、一瞬浮気調査と勘違いしました」




「二郎氏は浮気をしているんですね」




「ええ」



「何処の誰が相手でしょう」



「行きつけのスナックの、北野奈美という女性です。ごく平凡な浮気でしょう」



「スナックの名前は」



「モンタナです。この近くにあります」




「唯の浮気ですか。離婚迄は考えておられない」



「今も申しました通り、平凡な浮気です。其処まで考えてはいないでしょう」




「他に二郎氏の暴力的な変化について、お心当たりはありませんか」



「ありません。突然若い血気盛んな頃に戻ったとでも言うんでしょうか」
 


 亀田は礼を言って、木村宅を辞した。



 再び車に乗って、近所という近藤宅に向かった。二郎には身分を明かして当たるつもりはなかった。



 亀田はいささか緊張して、内ポケットに折り畳みナイフを忍ばせた。安田警部補は危険を警告した。本当に他人事ではないのだった。


 二郎は今頃の時間はサツマイモ畑に居る筈だった。亀田は土地不案内な旅行者を自称することに決めた。


 近藤は広大な畑の中にいた。煤けた野球帽にオレンジ色のtシャツ、目立った長身は農家らしい風景に溶け込む農民だが、近寄ってみて、見えた顔は嘗て写真で良く見た二郎だ。



「ちょっと済みません」



「君、勝手に畑に入って貰っては困るな」



「これは申し訳ありません。私は旅行で大隅半島に来たのですが、道に迷ってしまいまして」



「そういう事情なら、まあ構わないが」



「こっちは鹿児島市と違って、道が分かり辛いですね」



「何もない所だからね」



「ところで、失礼ですが貴方の御名前は」



「近藤二郎と言います」



「近藤さん、あの有名な近藤氏ですか」



「そうだが」



「やっぱりそうですか。いやあ、驚きました。現在は此方に来てらっしゃるんですね。農業従事なんですか」



「ええ、有名だったのは昔の話です」



「いえいえ、今でも映画作品は色褪せません。奇遇ですね」




「そう言う貴方はどなたなんです」



「亀田と言う者です。よろしく、詰まらんサラリーマンです」



「亀田さん、此方こそよろしく。一体何処から迷われたのかな」



「垂水迄は分かったのですが、何処も同じ田園風景で迷ってしまいました」


「車でいらしてるんですね」



「ええ」
 

 
 近藤は懇切丁寧に道順を教えた。もうすっかり田舎の人になっていた。



「有難うございます。助かりました。お礼にコーヒーでも奢りたいんですが、この近くに喫茶店はありませんか」




「昼間は喫茶店で、夜はスナックと言う店ならあります」



「何という店ですか」




「モンタナです。私もちょっと疲れたから、コーヒーは飲みたいですな」



「それじゃ、車で送りましょう」



 喫茶店兼スナックのモンタナは田畑の間にぽつんと在った。店内には古びたランプが幾つも飾ってあり、中々風情がある。


 二人は窓際の席に対座した。



「此処のコーヒーはやや野性的だが、ブレンドが旨いんです」



 近藤は常連客らしかった。水を運んできたウエイトレスは少し黒木瞳に似た美女だった。わざとらしい近藤を無視した態度から、この女性が浮気相手の北野奈美だと勘で分かった。



「実は私は」亀田は言った。「成城大学の文芸学部出身なんです」



「ああ、彼処は映画専攻がありますな」



「ええ映画も含めた芸術専攻です」



「それじゃ、映画の話は判る訳だ」



 無論話を聞き出す為の嘘だった。



「それにしても……」



「何かね」



「何故近藤さんは映画のお仕事を辞められたんですか」



「率直に申し上げて、映画の世界が終わったからです」



「終わったとは。今でもヒット作品は多いですが」



「芸術としての映画が終わったということです。現代では映画はアミューズメントパーク化してしまった」



「アミューズメントパーク、椅子が揺れたりする特殊な上映方式がですか」



「それもありますが、映画全体がお子様向けの娯楽に堕してしまった」



「アニメ隆盛の状況ではありますね」



「アニメもですが、実写映画も既に枯渇しています」



「確かにハリウッドは昔と違って、惨憺たる状況ですね」



「ハリウッドだけではない。ヨーロッパにも観るべきものは皆無です」



「映画芸術の枯渇ですか」



 コーヒーが運ばれてきた。ウエイトレスは近藤の肩を軽く摩った。議論に余り熱くなるなというたしなめらしかった。


 
 近藤はコーヒーを一口含んだ。



「嗚呼、矢張り旨いな」



「微かな酸味が良いですね」



「単に映画が廃れた、というに留まらないんです」



「と仰有ると」



「夢の世界の映画が廃れたということは、翻ってこの現代世界が壊れてしまったということです」



「世界が壊れた?」



「言語哲学、経済学、軍が世界を壊してしまいました」



「エクリチュールしか認めない、声を軽視する傾向がでしょうか」




「その通り、無意識も自己意識も認めない世界を構築してしまった」



「成る程、それでは経済学と仰有るのは」




「自己の利益追求しか目標としない行動仮説が、尊い道徳観念を見事に破壊した」




「道徳がそんなに重要なんですね」




「ええ、正しい道徳が定立しえないと、芸術は成立しません」



「そうですか。すると軍は?」



「言う迄も無いでしょう。正義の必要性は、私も認めますが、抑圧からは何も生まれない」




 亀田も苦いコーヒーを含んだ。



「こう言っては何ですが」



「何だね」



「済みません、怒らないでください。貴方は御自分に鬱の気があるとは思われませんか」



「思いませんな、それでは実例を挙げましょう」



「何ですか」



「ブライアンデパルマのパッションと、スチュアートゴードンのキングオブジアンツ」




「観ています。マイナーかもしれませんが」



「結構。これらは意図的に作られた駄作です」



「と仰有ると」




「もうこの世界には何も残っていない。そのことを伝えるためだけに作られた駄作」




「それはそうかもしれませんね。しかし彼らの才能が加齢のため衰えたとは、考えられませんか」




「巨匠の才能が加齢のためくらいで、揺らぎはしません。意図的な駄作なのです」



「言語の耐用年数は既に尽きている、とは聞きます」




「映像言語は更に深刻なのです」




「成る程、これはルカーチの文学論と関係があるんですか」




「ルカーチですか、マルクス主義とは無関係ですよ」




「そうですか」



 近藤は不意に表情を変えた。



「亀田さん、貴方は実は家内の雇った私立探偵ではないんですか」



「私がですか、いいえ」




「嘘だな、貴方の表情から分かりますよ」




「表情は変えていませんが」



「無表情は時に雄弁です」




「まいりましたな、どうせ木村貞夫氏からばれることですがね、いずれ」




「矢張りそうですか。別に私は、探偵を付けられても、何とも思いませんが」



「奥さんは純粋に心配しておられます」




「でしょうな、最近私の奇行が目立つのでしょう」



「ええ」



「心配は的を射ていなくもないが」



「どういう意味でしょう」




 近藤はその質問には返答しなかった。



     4


 その夜、電話帳で調べたモンタナの番号に亀田は掛けてみた。北野奈美を呼び出して貰った。



 忙しいらしく、中々出ない。電話を切ろうかと思った後に、奈美は電話口に出た。




「お忙しいところ誠に申し訳ありません。亀田という者です」




「北野です。探偵さんでしたわね」



「そうです、少しお話を伺いたいのですが」



「よろしいですわ」



「有難うございます。それじゃ、店が終わられてから、外の私の車に来て頂けますか」


「判りました」



 亀田は二時間程、駐車場で待った。フェイツウォーニングのスティルライフを聴いていたので、退屈はしなかった。



「大変お待たせしました」



 奈美は助手席に入ってきた。



「お疲れ様。缶ビールがありますが、もう飲まれませんか」



「頂きますわ。何処で買われたんですか」



「この先に酒屋がありました」



「それは遠いですわ」



「ええ、ところで近藤さんのことですが」




「何なりと聞いてください」




「最近目立った変化がありましたね」




「ええ、非常に怒りっぽくなりました。昼間貴方と話してた時はそうでもありませんでしたが」



「話が合ったからでしょう。いつもはもっと冷静を欠いてらっしゃるんですね」



「はい、取り付く島もないくらい」



「どういう理由からですか」




「良平さんのことで悩んでいるんです」



「高校生の息子さんですね」



「高校三年生ですわ。二郎さんは良平さんを本当に溺愛しています」



「そうですか。何か問題が」



「良平さんの様子がおかしいらしいですの。良平さんは学習障害なんですが」



「成る程、どんな風におかしいのでしょう」



「それは私には話してくださらない。誰にも打ち明けられないみたいです」




「何か言葉の端でも、漏れ聞こえませんか」



「そうですわね、何か諫めたらしいんですの。もう二度とするなと」



「どんな内容で」



「判りません」



「そうですか、他に何か」



「他には、私は何も知りませんわ」



「そうなんですね」


 奈美は漸くビールを呑んだ。亀田は缶コーヒーを飲んだ。



     5

 もう一つ別の依頼が入った。



 他愛ない、飼い猫が行方不明になったというものだ。亀田は、近くのコンビニに行き、猫の写真を拡大コピーした。



 写真を、天文館の街角のあちこちに貼った。迷い猫、連絡待つと書いて。



 事務所に戻ると、フェイツウォーニングのmp3CDを掛けた。


 その折、安田警部補から電話が入った。



 青天の霹靂だった。



「また殺しだ……」




「何ですって」



「今度は県庁職員だ。真田孝子、38歳。現場は鴨池新町」




「また滅多刺しですか」




「そうだ、そろそろ御前の情報をくれ」




「分かりました。近藤二郎ですよ、映画プロデューサーの」



「私は知らないが」




「そうですか、近藤二郎は鹿児島大隅に移住しています。農業従事者として」




「そいつが疑わしいのか」




「ええ、ルカーチに傾倒して、テロを計画しているらしい」




「成る程、住所は?」



 亀田は住所を告げた。



「よし、しょっぴいて吐かせてみよう」




「お手柔らかに」




「大丈夫だ、昔の警察とは違う」



 電話は切れた。亀田はフェイツウォーニングの世界に戻った。




 ファーストアルバム、ナイトオンブロッケンから初期の華麗なプログレメタルの世界に、只管浸った。



 アルバムが進んで、パラレルズを聴いている頃に再び安田警部補から電話が入った。



「駄目だ、近藤はシロだ」




「何か分かったんですか」




「彼にはアリバイがある。2回の犯行時刻、いずれもサツマイモ畑に居るところを目撃されている」



「大隅からですからね。フェリーで渡ってくるには時間がかかるでしょう」




「案外近いんだがな、目撃情報は確かなものだ」



「ちょっと待ってください」



 亀田はスマホを置いて、暫し熟考した。



「何かあるかもしれませんよ」




「何がだ」



「アリバイトリックの類が。もう一度、良く調べてみてください」




「了解だ。調べてみよう」



 電話は切れた。亀田は再度複雑な展開のヘヴィメタルに没頭した。




 ドリームシアターより好感が持てると考えていた。ヴォーカルが交代してから、内省的にサウンド変化した。



 ディスク2を聴いている折だった。再度安田警部補から電話が入った。mp3なので、最初の電話から八時間ほど経過している。



「御前の言う通りだった」




「と言いますと」



「アリバイトリックがあった」




「どんな?」



「倉庫からマネキンが見つかった。野球帽を被せて、オレンジのtシャツを人形に着せていた」



「ああ、それをサツマイモ畑に置いていたんですね」



「案山子ならぬ、本物そっくりの近藤二郎に見間違いさせるためにだな」




「目撃者が見たのはマネキンだった訳ですね」




「そうだ、世話になった。事件解決だ、今度ちゃんと礼はする」



 電話は切れた。亀田は両掌で顔を覆った。釈然としないものが残っていた。



    6


 亀田は、二郎の妻、和子の代理人として、二郎に面会を要請した。



 弁護士でもないので、要請は容易には受容されなかった。




 二日後に漸く面会許可が下りた。裏に安田の力添えがあったようだ。



 亀田は、留置場の前、鉄格子を挟んで、二郎と顔を合わせた。



 二郎はげっそりとやつれた様子だった。



「近藤さん、本当のことを話して頂けませんか」



「何かね?」



「今は誰も聞いていない。看守も遠くにいます」



「話すことは何もない」




「近藤さん、私は独自に調査しました。警察よりも丹念に足を使ったつもりです」




「……」



「畑の中の貴方を目撃した、という人に複数話を聞いた。結果、判りましたよ」




「何がだね」



「目撃した人によっては、畑の中の貴方の位置が微妙に違っていましたよ」




「だから何かね」



「マネキンが移動する筈はない。貴方はサツマイモ畑に実際に居たんですね」



「……」




「実際は居たのに、居なかったと偽装する逆アリバイトリックは崩れました」




「だから何だと言ってるんだ」




「貴方は殺人をおかしていない」




「あんたはそれを警察に話したのだろうな」



「いいえ、話してません」




「何故かね」



「さあ、何故でしょうね」



「まさか、あんたは知っているのか」



「知っています。息子の良平さんには暴力嗜好がある。調査しましたが、彼にはアリバイはない」




「頼む、このまま黙っていてくれないか」




「これが貴方の言う道徳観念なんですか」




「さあな」




「そうやって貴方が罪を被って、一体良平さんはどうなるんですか。大きな心の歪みを残したまま成長する」




「良平には、人をもう殺すなと口を酸っぱく言い含めた」



「それで、歪みは残りませんか」




「時間が全てを消してくれる。期待しようじゃないか」



「近藤さん」



「私は映画プロデューサー時代に、覚醒剤や大麻の売人をやっていた。私は悪人だ。どうせ罪を償わなければならない。だが息子には未来がある」



「ありますかね」



「あるさ、私独りが犠牲になれば済むことだ。亀田さん、お願いします。このことは内密に」



 亀田は、ゆっくりと頷いた。