そろそろ二人は付き合い始めて1年以上は経っていた。そんな夏のある日、薫はイライラしはじめていた。岡崎は彼女が求めている一言をなかなか言おうとしなかったのだ。彼が最近なんとなく言おうとしているタイミングを見計らってるのは、彼女に見えていたのだ。求めている決定的なあの一言・・・。
そんなある日の早朝、いつものお気に入りの白いグッチの鞄を持って、薫が一人で出かけていた。しばらくすると、うつむきながら歩いてる彼女に突然、後ろから聞き覚えのある声がした。聞きたくない声だった。
「かおるー、かおるじゃあないー」驚いて振り向くと、はでなピンクの帽子をかぶって、なりそこねたお姫様の様な女が手を振り近づいて来た。
同じ部署の優子だった。
 薫は優子が苦手だった。優子は何かと自分をライバル視するような気がするのだ。
けれど、薫は彼女と自分には、女としての決定的な差があると思っていた。それは事実だった。
「どこに行くのー」彼女は走って逃げようかとさえ思った。
しかし優子は素早く近づいて薫の横に並んだ。
「一人? ご一緒してもいいかしら?」薫は心の中で、「嫌だ」、そう言ったがさすがに口に出せなかった。
「どこいくの?」薫は黙っていたが、彼女がしつこく聞いてきた。
「どこいくの?」彼女がしつこく聞いてきた。薫は仕方なく口にした。
「この先によく行く喫茶店があるのよ」薫はそう答えると、あとは何も言わず、そのまま喫茶店に向かった。
「素敵ね」優子はそう言って彼女の横に並んだまま、勝手に着いてきた。
喫茶店に着き、席に座ると優子がどこかしら、敵意を感じさせる笑顔を見せながら向かいに座った。その彼女の敵意が薫には頬を指すようで痛かった。
「一人なの?」優子がしつこく聞いてきた。薫は、話すこともなく、しかたなく口を開いた。
「まあね。あなたは?」
彼女は微妙に顔色を変え、薫をにらみつけるように言った。
「主人と待ち合わせよ、まだ時間があるの」
その様子には、どこかしら、先生に叱られた後の小学生の様な、少し不貞腐れた様子が窺えた。薫はこの子が、以前、岡崎に振られたことも、その後に見合い結婚をしたということも知っていた。すると、今度は優子が、探る様な薄笑いを浮かべ薫に聞いてきた。
「薫、あなた結婚はまだ? あなた岡崎さんと付き合ってるんでしょ?」
いきなり核心を突いてきた。これだから薫は優子が嫌いだった。誰にだって聞かれたくないことの1つや2つあるものだと彼女は思った。
「あ、ええ、そろそろとは思っているけど」
店内に静かにビートルズの「レット・イット・ビー」が流れた。
薫の好きな曲だった。
「サイモンとガーファンクルだわ」優子が自信たっぷりに言った。
薫は何も言わなかった。そんな優子は聞きもしないのに、自分の肥えた結婚の状況をとくとくと、少し自慢げに語り始めた。本当かどうかは知らないが、彼女は薫に結婚がどんなに素晴らしいかを、説明したい様子だったが、薫にとって彼女の話は嫌味にしか聞こえなかった。薫は顎を掌に載せ、肘をついたまま、人通りの少ない軽く緑に染まったなんとなく寂しげな窓の外を見詰めていた。
薫の心の中は空っぽだった。
そんな優子の演説を聞かされた帰り路、風の強い昼下がりだった。
岡崎を呼び出そうかとも思ったが、彼は今日は確か休日出勤だったはずである。
諦めて帰ることにした。待っていると、バスはすぐに来たのだが、そのバスに素早く乗り込もうとすると、一人の老人がふと薫に尋ねてきた。
「このバスは真栄に止まりますか?」
「知りません」彼女は嘘をついた。
薫はそのバスが真栄に止まるのを知っていた。
が、彼女はその老人に関わりたくないと思ったのだ。
そして彼女は、そのバスに乗り、自分の部屋へと帰った。老人は困ったようにバス停に立ち尽くしていた。
バスを降りると薫の部屋の近所の電柱に止まっていたカラスが突然ベチャリと音を立てて地上に落ちた。彼女は嫌な予感がしたが考えないことにした。

部屋に戻ると母が一人で何時ものTVを見ていた。その姿を悲し気にちらりと見つめたまま、彼女は母に挨拶もせずに自分の部屋へと上がっていった。
しばらくすると静かに、少し遠慮がちに携帯が鳴ったのだった。彼女が何も考えずに携帯を手に取り、目を落とすと岡崎からのメールだった。
なぜこの時間にメールなのだろう、いつもなら電話がくる時間だ、そう思い内容を見てみると、
「大事な話がある。渡したいものもあるから、明日、会ってくれ」
そして待ち合わせの店と時間が入力されていた。
そのメールを読んだ瞬間に彼女は飛び上がらんばかりに驚いた。「つっ、ついに来た『大事な話に渡したいもの』これは間違いない、プロポーズだ」
瞬時に大きな感激が彼女を包んだが、同時に鋭い緊張感が感激を二分に切り裂いた。彼に母のことは、まだ話していない。しかし・・・、しかし彼なら必ず理解してくれるはず・・・。 彼女は彼を信じるしかなかった。
その約束の日だった、朝早く目を覚ました彼女は、朝食を食べずに、まず、シャワーを浴びることにした。
岡崎を想いながら、暑い夏の朝に浴びる冷たいシャワーは、彼女の体に至極の喜びを感じさせた。
丹念に体をふくとバスルームから、素っ裸で飛び出し、クローゼットから、普段あまり着ない胸の広く開いた紫色のワンピースを取り出した。
ピアスを耳にし、指にリングをしてみた。
 しかし彼女はリングをやっぱり外した。リングが気に入らなかったのではなく、彼女は思っていたのだ。「どうせ今日、新しいのが手に入るはずだ」。
そう思い、とにかく、真っ赤なブラに真っ赤なパンティーはき、クローゼットから取り出した紫のワンピースを着ると、待ち合わせの時間になるのをじっと、何もせずにひたすら待ち続けた。長い、長い時間だった。とても長い時間だった。
そしてついにその時間がきたとき、彼女は待ち合わせの場所へと、ゆっくりと向かっていった。彼女は思っていた、この日がどんな日になるか、何が起こるか、彼が何を言うか。そうしたら自分は何と答えるか。心の中で何度も練習した。ミスは許されない。 しかし彼女は思っていた。「自分は『はい』、そう言えばいいだけだ。
もちろん囁くように。」
 待ち合わせの喫茶店にはめずらしく彼が先に来ていた。何時もの席に俯き座っていた。彼の上着のポケットが少し膨らんでいたのを彼女は見逃さなかった。薫はそんな彼の向かいに座ると、彼女も静かに俯いた。
少しの間、薄く沈黙が続いた。彼の心臓の鼓動が聞こえてきそうだった。
新進気鋭のプログラマーと呼ばれている彼が、緊張している様だった。
その彼の緊張感が薫にも伝わって来たように、彼女の小さな胸中は、ドキドキと震えはじめてきた。その震えは周期の短い物理的振動のように、彼女の小さな心を攻めたててきた。何故か、初めての時、あの時に感じたような羞恥心が、心の中で乱舞し始めた。
彼女は赤くなってきた。顔が上気してきた。
薫は思った、あれだけ練習したのだ、落ち着け。そして下を向いて待っていた。その時を待っていた。すると突然、彼が顔を上げ言った。
「薫、少し歩こう」
彼女は返事をして小さくうなずいた。
夜風に吹かれ小道を歩きながら、時々横目で彼を見つめた。彼は下を向いたり、上を向いたりするだけで、あの一言をなかなか言わずにいた。
彼女は少々イラつき思っていた。「こんなにいくじのない男とは思はなかった・・・」。
すでに日は暮れて、二人を包み込むような夜空が広がっていた。
二人は表に出て近くの河辺に出た。コオロギが泣いている。
その時、札幌の碧い夕空に乱れるような光の華が咲き、街が薄く映し出された。
その一瞬に小さな歓声が上がり、走り去るよう緑に染まった夏が過ぎ
そしてゆっくりと紅色に暮れた秋が訪れるようだった。
彼は紫に染められた夜空を見つめていた。
そんな彼を横目で見ながら、彼女も空を見上げ想った、「何を考えているのだろう・・・。」
彼女の心は空っぽだった。
その時だった、彼が突然言った。
「薫・・・」
彼女は驚いて、思わず言った
「なに・・・」
「・・・・・・」
一瞬の間があった。薫にはとても長い一瞬に感じた。
「結婚してくれ」
彼女の心にはその時、何もなかった。何もかも忘れていた。
「えっ・・・」
彼がもう一度言った。そして小さい箱をそっとポケットから取り出した。
「俺と結婚してくれ」
彼女のその眼に驚きと感激で涙があふれてきた。彼がポケットから取り出した小さな箱を、彼女のその小さな手に、その小さい箱をそっと握らせた。彼女が小さく言った。
「う、うん・・・」
 河辺に静かに紫色に染まった空に、広がるような音とともに花火が上がり、二人を金色に照らし出すようだった。花火の音で返事が聞こえたかどうか、彼女は心配した。
薫のほほを涙が一筋流れた。
「・・・・・・」彼女は何も言えなかった。
そんな夢うつつの中にいた薫を、岡崎が現実に引き戻すように言った。
「薫、君のご両親にも挨拶に行かなくちゃな・・・。君のご両親どうしてるんだい?」
薫は心の中に突然、何か大きな重いものが、落ちてきたような気がした。
「・・・・・・・」彼女は何も言えなかった。
「どこにいらっしゃるんだい。ご健在なんだろう」
見つめた岡崎の後ろに母の顔が見えた。
「じつは、父は幼い頃に亡くなってるの」
薫の心に目まぐるしくコオロギの鳴き声が響いてきた。
「そうだったのかい。お母様はどうしてるんだい?」
躊躇いがちに薫が言った。
「じつは、母とは同居してるんだけど・・・」彼女はそのあとの言葉に詰まった。
「ご一緒だったのかい、それは失礼していた。付き合っている頃に一度くらい挨拶すべきだったな」
「それがね、それが母は、認知症が進んでほとんど家にこもりきりの状態なの」彼女は思い切って一気に告白した。岡崎は驚いた様子も見せなかったが、しばらく二人の間の会話が途切れた。しばらくして岡崎が言った。
「そうだったのか。それじゃ何とかしてあげなくちゃいけないな」
彼女の目に再び涙が浮かんできた。
そしてこの二人の話はたちまち社内に広まった。