そうして3人は夏休みに函館に出かけた。
「函館の市民にとって、夏場のイカと言えばスルメイカ。歯応えがたまらないんだ。これは『はこだて自由市場』で体験できる。場内にはその場でさばいて食べさせてくれるイカ専門店や活イカの釣り堀もあるんだよ」
加藤がはりきって岡崎と薫、二人に説明してくれた。
「三方に海に囲まれた函館は、一年中新鮮な近海ものが手に入る。函館駅前から五稜郭方面に向かう途中に『はこだて自由市場』はあるんだ」
「おいしんだろうな」岡崎が言った。
「そうね」薫は少し元気がなかった。
「魚介類の質のよさに定評があり、地元っ子はもちろん、料理人が仕入れに通うプロ御用達市場としても知られている」
「ウニなんかもあるのかい?」岡崎は刺身類が好きだった。
「約40件ある店の中には、新鮮なウニの殻をむいてその場で食べさせてくれるところもある。殻むきの職人技には驚くばかりなんだ。食い入るように見てしまう」
「場内に店を構える『函館すし雅』という寿司屋。1貫80円からだと思うが。すごく安いのに、市場のネタを使ってきちんと仕事をした寿司が出てくるんだ。お昼はここにしよう」。
「楽しみね」
寿司の好きな薫なはずの薫が何となく言った。
昼食の後、3人は温泉に向かった。
「函館には素敵な温泉街も多いけれど、僕のおすすめは、函館山の麓の谷地頭温泉。温泉好きの友人に紹介して、喜ばれたこともあるくらい。温泉掛け流しで、鉄分の多い茶色いお湯がほんとに気持ちいいんだ」
「函館に温泉というのはあまりイメージに合わないね」
「そんなことはない。函館市電の終点、谷地頭停留所から、徒歩5分の日帰り入浴施設などもあるんだ。近くには人気パン屋や和菓子店が並ぶ商店街のほか、〈函館八幡宮〉や《立待岬》といった観光名所も多い。古くから愛されているが、2013年にリニューアルオープンした天井が高く気持ちよい浴場のほか、特別史跡《五稜郭跡》にちなんだ星形浴槽の露天風呂もある」。
「そうだったのかい。意外だね」
「銭湯くらいの料金で入れるし、毎日通っている地元の人も多い。人情味のあふれる下町の温泉施設といった雰囲気なんだ。食堂には畳敷きのスペースがあり、ビールを飲んだりラーメンを食べたりしながらのんびりできるところもいいんだよ」。
函館の魅力は何といっても活気があって人が明るい事。加藤は言う。
二人はその函館の魅力につかりながら今回の旅を楽しんでいた。
「港町だからだろう、みんなおおらかで明るい。この温泉では、そういう、街の人柄を感じるよ」岡崎はふとそんなことをつぶやいた。
「市街地から車で約1時間半。大自然が残る知内町の矢越海岸に、手つかずの美しい洞窟がある。昔から船でしか辿り着けなかったその場所は、まさに奇跡の秘境となっている。10年ほど前から、『青の洞窟』というキャッチフレーズとともに隠れ家的観光スポットとして人気が急上昇して。小型遊覧船によるクルージングが日々運航されているんだ」加藤の説明に、学生時代、乗船の経験のあった岡崎が思わず言った。
「そこは僕も昔1度、体験したけれど、神秘的できれいだった。びっくりするほど楽しかった」
「誰と来たの?」と薫は岡崎を睨みつけた。
「・・・・・・」コメントはなかった。
「小谷石の漁港を出発したら、海岸沿いの断崖絶壁や奇岩を眺めながら洞窟へ。入り口は小さいけれど、洞窟内は奥行き約60m。海水による浸食で複雑な形になったその空間は真っ暗闇だが、やがて、青く透き通った海面やコバルトブルーの光に目を奪われる」
「僕が今、一番行きたいのはここ。毎年のように函館に帰省していても、いまだに知らない名所がある。小さい町だけれど、ますます好きになるよね」
加藤が遠くを見つめるような目でそういった。
そして次は函館山だった。
「〝手が届きそうなほど〟ってよく言いうが本当にその通り。キラキラと輝く景色がすぐ目の前に広がっている。これが函館山から見下ろす夜景の魅力なんだ」
「2020年のミシュラン・グリーンガイドでは3ツ星に輝いた函館の夜景なんだ。高さ334mの函館山山頂展望台から見下ろせば、細くくびれた半島と、その両側に広がる暗い海。くびれ部分に密集した道路や街の光が、大きなアーチを描きながら広がっていく」。
「右が津軽海峡で左が函館湾。コンパクトな街の両側に海がある景色なんて、函館でしか見られないんじゃないかな」
「日没30分後の、空が薄暮れから濃紺に映る時刻もいいし、真っ暗な街に明かりがきらめく頃も美しい。また、函館山から街を一望する『表夜景』に対して、反対側から函館山を望む『裏夜景』も素敵なんだ。最近は、臨港道路のともえ大橋から山を眺める『中夜景』も注目されている」。
 岡崎も、薫も、何も言わずに函館山から見える、暮れかけた函館の街の景色をただ黙ったまま、手を握り締めあいながら見つめていた。二人ともその美しさに撃たれて加藤の説明は耳に入っていなかった。
「やっぱり函館山は街の象徴。帰省する時は函館空港から湾岸道路を使うけれど、途中、〈啄木小公園〉に駐車して、今でも函館山の写真を撮るんだ。啄木の碑を左に見ながら撮るのがベスト。僕が地元に帰って来たなと実感する瞬間だ」
 二人ともここまで加藤が詳しく函館を語るとは思っていなかった。ちょっと意外な気がした。
「それじゃ、僕はこれで失礼するよ。後は二人で楽しんでくれ。」
 そう言って加藤は帰っていった。
今回、函館は初めてだった薫にとって、今度の旅行はそれでも感動の連続だった。
そしてホテルに戻って、二人きりになれた薫はようやく元気を取り戻し、夕食を食べているときにも、いささか疲れ気味の岡崎にお構いなしにその感動をぶちまけていた。
「わー、本当においしいわね。こんなおいしいお魚、食べたことがない」
薫は目を輝かせながら言った。               
「そうかい・・・」岡崎は早く切り上げタバコが吸いたかった。学生時代からも何度か函館旅行の経験がある彼は、今回の旅行、自分は薫の案内役のような気もしていた。
 そこで立ち上がるきっかけを作ろうと一策ひねった。
「あれ、揺れてる、地震だ・・・」突然、岡崎が言い出した。
「えっ、どうしたの・・・」
「地震だ・・・」
岡崎は一人で立ち上がり、周りを見回している。
「やーねー、なにも揺れてないわよ、座ってよ」そう言う薫をお構いなしに、彼は 1人で立ち上がり、あたりを見回している。他の席の人達は笑顔で食事をしていた。
「恥ずかしいから、座って・・・」
「恥ずかしいわよ・・・」
「おさまったかな・・・」
「それじゃ、僕はタバコを吸ってくる」彼はそう言うと、薫を残したまま、一人で立ち上がって喫煙所にさっさと行ってしまった。
薫は呆然とその後姿を見つめたまま、結局一人で食事を続けることになった。
彼は戻ってこなかったのだ。
そして彼女は部屋に戻ると、風呂にも入らず一人で既にぐっすりと寝入っていた岡崎を睨みつけながら彼のベッドの横に滑り込んだのだった・・・。
その夜、窓の外には、まるい月がぽっかりと浮かびあがり、薄い絹のような雲が流れていた。美しい夜・・・。
薫は突然、目を覚ました。 
部屋の中は闇で染められ、沈黙が敷き詰められていた。
時計の針は、まだ1時を指している。
薫は見ていた夢を思い出した。額に薄らと汗がにじんでいた。
いやな夢だった。大きな地震にあった夢だった。
地震で彼と二人で暮らしていたマンションが大きく揺れ、部屋の中の家具が倒れ出してきたのだった。恐怖に怯えて薫はどうしていいかわからずに岡崎を探した。
ところがその時、薫を置き去りにして岡崎がなぜか自分だけ一人で部屋から逃げ出していってしまったのだった。
その夢を思い出し、横で寝ている岡崎の顔を暫く無言で見つめ、彼女は考え込んでしまった。
 「この男は本当に自分を愛しているのだろうか・・・。」
彼女は疑問を感じてしまっていた。
 「本当に、この男は、自分のために命をかけてくれるのだろうか・・・。     いや・・・。」 
 彼女の胸の内に大きな疑惑が渦巻いた。そして彼と出会った時の、あの発作的な鬼のような感情がよみがえってきた。それはあの時の痴人のような思い・・・。
彼女は思った。そして鬼のように赤黒く微笑んだ・・・。
薫はそのまま鬼の様に妖しく光るように微笑みながらベッドから起き上がり、ふたりの寝ている部屋の中を見回した。するとテーブルの上に置かれた、大きく重そうな花瓶が、にぶい月の光に美しく小さく輝いていた。彼女は影のようにゆらりと立ち上がり、その花瓶の花を抜き取り、床の上に投げつけ、その美しい花瓶を両手で抱き上げた。そして彼の横に立ち上がり、彼女はその赤黒い鬼の様な形相で、眠っている彼を見つめた。彼女は思ったのだった。
「この男の命は私のものだ」
そして寝ている彼の横に立ち、月の光に美しく小さく輝く花瓶を彼の頭上に思いっきり振り上げ、そして心の中で大きく叫んだ。
「殺してやる・・・。」。岡崎はその下で目をつむり静かに寝息を立てていた。
そして彼女はその振り上げた花瓶を力いっぱい握りしめた。  
その時だった、あの時の喫茶店の天使の様なママの瞳が彼女の脳裏に映り、あの時のママの優しい声が彼女の耳をよぎったのだった。花瓶を振り上げていた彼女の腕が震え、花瓶を握りしめていた手が震えた。彼の頭上で花瓶が小さく揺れ、そんな彼女の心にあの時のママが再び何かを問いかけたのだった。
「わたしは・・・、彼を・・・」彼女は思っていしまっていた。
 彼女の心が震えた。振り上げた花瓶が彼の頭上で小さく揺れながら月の光に輝いていた。薫はその腕を振り下ろすことが出来なかった。彼女は茫然自失の状態でうなだれ、その花瓶の下で彼は静かに眠っていた。
そして花瓶を床に置き、膝をつき、両手をついたまま、どうしようもなくなった薫は、そのまま、泣き続けた。しかし彼女は自分の脳裏に映ったママの映像、耳に走ったママの言葉が自分の振り上げた腕をなぜ止めたのかは分かっていなかった。
横では岡崎が静かに眠っていた。
そして泣き疲れた薫は、再び眠りにつくしかなかった。
「おはよう」
次の朝、岡崎が何事もなかったように薫に言った。
「・・・・・」彼女は何も言えなかった。
「どうしたの?」
「なぜ花瓶がこんなところにあるんだい?・・・」彼は不思議そうに尋ねて花瓶を元のテーブルの上に戻した。薫は答えた。
「えっ・・・。どうもしないわよ・・・」彼女は、今は何も考えないことにした。
その日、二人は何事もなかったように札幌へ帰った。
薫はママの喫茶店に出かけた。しかし彼女の喫茶店はなくなっていたのだった。