ほんの数分前まで私は間違いなく空気だった。だが今、部内の二十人近い社員の目が隣に立つ男に向けられている。しかもこの視線の集め方、私が知らなかっただけで貴博さんは社内で結構身バレしているのではないだろうか。
「でも私――」
「行くぞ」
 彼はグイと私の腕を掴んで、経理部から連れ出した。長い廊下をスタスタ歩き、ひと気のないところまで引っ張っていく。
 空いていた会議室の一つにさらりと連れ込んで、ようやく彼は私の手を放した。というよりは、少し力が緩んだところをこちらが振りほどいた形である。
「何するんですか!?」
「ちょっと、話があって」
 貴博さんは平然と言葉を返す。
「社内で話し掛けるなとおっしゃったのは、貴博さんの方でしょう」
「……何でまた敬語?」
 そりゃ、いきなり副社長だと知らされたら身構えるだろう。だいぶ慣れたとはいえ、背の高いイケメンに見下ろされる威圧感も健在だ。
「話し掛けるなって本番前のことだろ。もう公演は終わったんだから」
「終わったというなら、私たちはとっくに無関係です」
「どうしてそうなる? 俺、また会社でって言ったはずだろう」
「で、外堀から埋めるわけですか」
 食って掛かったら貴博さんは眉根を寄せた。
「きっと今頃、経理部一の地味女が副社長と手に手を取って消えていったと噂されていることでしょうね」
 言葉に詰まった彼に向かって、更に詰め寄るように問い掛ける。