「深雪こそ、脚本家で演出家でヒロインがこんなところにいていいのか?」
「あなたがいるうちは施錠できないからね」
 なんて答えてはみたものの、戸締りは本来勇也さんの仕事だ。それをわざわざ買って出たのは、このまま帰ってしまいそうな気配が漂っていた貴博さんともう少しだけ話をしたかったからだろう。
 黒いパネルに背を預け、誰もいない客席を見渡す。客席どころか音照ブースにも楽屋にも誰もいない。それでいて完成している舞台に立つことは、私でも意外と珍しい経験かもしれない。
「そういえば、結局キスはふりにしたのね」
「え? ああ」
 千秋楽のキスシーン、私には目の前の彼が本気で迫ってきたように見えた。だから覚悟を決めて目を閉じたのに、彼が唇に触れてくることはなかった。
「ふりでもいいって決めたのは私だし、正直どっちだっていいんだけど」
 隣に立つ貴博さんに、冗談めかして尋ねてみる。
「私とのキスは嫌だった?」
「かもな」
「やっぱり」
「演技でするのは嫌だった」
 彼はグイと私の腕を引き、その手を頬に添えるようにして私に口づけた。
「ちょ……まっ」
 更に強く押し付けられ、完全に唇を塞がれる。
 二人だけの世界となった舞台の上、ドラマみたいというよりは夢みたいなキスだった。
 この男はもうヒロではないし、私もユメではない。それでも貴博さんが私を優しく絡め取るから、つい身を任せてしまいたくなる。