稽古を進めて目に見えて良くなったのは、貴博さんの笑顔である。
 初めの頃、彼は常に勝ち気でふてぶてしい笑みを浮かべていた。それはそれで格好いいし、ヒロインを現実へ送り出す文脈では強がっているようにも見えるから、その顔さえあれば問題ないと思っていた。
 けれども、役作りを始めた彼がもっと柔らかい微笑みも見せるようになったことで、序盤のひたすら彼女を甘やかす都合のいい男が思いのほかハマったのだ。
 奈央子はもう舞台の上でメロメロになっていた。
 客席の――といってもスタッフ数名分の椅子しか出ていないが――ど真ん中に陣取る私がシーン終わりのクラップを鳴らす。しかしその後も主人公に感情移入した彼女は、とろけるような瞳でイケメンを見つめている。
「無理です、無理です。私、ヒロくんを置いて現実になんて戻れません」
 土足上等の板張りの床に、直接どさりと座り込んだ美女は、ブルブルと激しく首を振った。
 対して貴博さんは切り替えが早く、クラップが鳴る度に「ヒロくん」はいなくなる。ほんの数秒前に奈央子の手を取って笑いかけていたはずの男が、次の瞬間には鋭い目つきで彼女のことを睨んでいる。
「は? 何言ってんの?」
 愛想はゼロでも、立ち姿はきれいなのが憎らしい。いや、演出家としては大歓迎なのだけど。