悲しみや怒りをアルコールで誤魔化してしまおうと思い、雪が歩いていると、不意に肩を叩かた。

「はい?」

不機嫌ですと丸わかりな声のトーンで雪は振り返る。そこにいたのは、背が低めで、クリッとしたアーモンドアイに、クシャッとした癖っ毛の男性だった。この男性に、雪は心当たりがある。

『久しぶり』

男性はそう言ったものの、口は動いていない。口は笑みを浮かべ、指の背を合わせた両手だけがゆっくりと離れていく。手話だ。

「蓮くん?」

雪がそう言うと、榎本蓮(えのもとれん)は嬉しそうに頷く。彼は中学・高校の同級生で、生まれつき耳が聞こえない。従姉妹が耳が聞こえず、手話ができる雪と彼が仲良くなるのに時間はかからなかった。

高校を卒業した後、雪は東京に進学し、蓮は地元の会社に就職した。前に会ったのは八年前、成人式の時以来である。

『久しぶり。元気だった?どうして東京にいるの?』

雪が手話で話しかけると、蓮は『東京にある支店に移動になって』と話す。蓮は声を出さない。蓮自身、「声」がどのようなものなのかわからない。だが手話があるため、会話に困ることは何もない。蓮の声がどのようなものなのか、雪は一度も聞いたことがないが、それは仕方のないことだ。