哉人さん――そう呼んだことは、たぶん一度もなかったと思う。
思えば、子どもの頃から私はこの顔に弱かったのかもしれない。
年の離れたこの幼なじみのことが大好きで、憧れを通り越して、もう何が何でも彼と結婚するんだと決めていた。


『かなちゃん』


整った顔、すらりとした長身、彼の出自を表したかのような、どこか優雅にすら見える仕草。
もちろん、当時の私に私たちの状況をすべて理解することはできなかったし、落ち着いているのも大人なのも、手が届かないのも。
八歳も違えば、それが当然であることも知らなかったと思う。


『こら、真百合。お兄ちゃんでしょ』


何度も訂正されればされるだけ、悪いことをしている気分になって、私はいっこうに改めることはなく。


『にーに』


それどころか、お兄ちゃんよりも恥ずかしい、やけに甘えた呼び方を思いついた。
弁解するなら、当然顔だけが好きだったわけではなくて――本当に――どこか冷たくも見える瞳が、ふわりと笑うその瞬間を見つけるのが大好きだった。
「にーに」は口下手だったし、ものすごく甘やかしてくれたとか、「にーにとけっこんする! 」という幼児の戯言にその場しのぎで合わせてくれた記憶すらないけど。
それでも私は、そんな正直で、ちょっと無愛想で、でも本当は優しいにーにに夢中だったんだ。

にーに呼びも、いつしか大人の間で、ちゃん付けよりはマシだろうという結論に至り。


『まゆりちゃんは、本当に哉人が大好きねぇ。こんな愛想がないのに、変わった趣味をしてるわ。もう、婚約者ってことでいいじゃない? 』


私の目論見は成功した。
それだって、彼のお母さんの冗談に過ぎなかったと、今では思うけど。
小さくて狡い私は、「大人はそうかもしれないけど、本人は信じてるもんね。言質取ったもんね」と内心思っていたかもしれない。……どんな子どもだ。
ともかく、哉人さん――にーにが寡黙なのをいいことに、周りの大人と私はいいように話を進めてたわけだ。


「……じろじろ見ないでください」


狭い部屋、そんなにきょろきょろする必要もない。
実際、そんなに哉人さんは見てないと思う。
なのに、ものすごく居たたまれなくて、恥ずかしくて。
小さなテーブルに目一杯広げていたアクセサリーのパーツを、急いで掻き寄せた。


「……落ちぶれたって思ってるんでしょ」


誰もそんなこと言ってない。
でも、もう後には引けなかった。
せっかく頑張って作業していたものを、恥ずかしがって情けなく思って自ら潰してしまった時点で、誰より私がそう思ってるんだって突きつけられたから。


「いや? でも、確かに匿ってもらうにはここは狭いな」

「……承諾してないのに勝手に上がり込んどいて、図々しいと思いません? 」


その文句も、正論で本心だ。
でも、どこかほっとしてた。
だって、哉人さんの目には嘲笑の色も軽蔑もなかった。
ただただ本当に、「ここに住むには狭いな」と思ってるらしいことが伝わってきて、拍子抜けだ。


(……にしても、自分勝手に失礼すぎじゃない)


「夜分に申し訳ないとは思ってるよ。あと、何だかんだ、男を言われるままに部屋に上げるのもどうかと思うし、心配だ」

「…………それ、やったのご自分ですよね」


この人、本当に哉人さんなんだろうか。
昔の大人で冷静でクールで格好いい「にーに」のイメージとは、どうも結びつかないんだけど――……。


「……ということで、やっぱりこの方がいいな」


やれやれ、プランBを考えといてよかった、とでも言わんばかりにふっと息を吐くと、哉人さんはまたもとんでもないことを言い放った。


――約束どおり、俺のところにおいで。