篠原くんはにこりと笑うと、眠っている神谷くんを叩き起こして教室へ出て行った。

 篠原くんはすごいけど、ちょっと気配りが過ぎる気がする。きっと誰よりも過敏すぎるんだ。周囲の空気を全部吸い取って、羨望も、嫉妬も、悪意も、欲望も、全部スポンジみたいに吸い込んで、感じ取ってしまうんだ。全部感じ取って、受け取って、傷ついて、だからあんな風に。

 わたしなら、全部見ないようにしちゃうのにな。自分が傷つかないように、いつも下を向いて、悪口も必死に聞いてないふりをして、周囲の視線から逃げるようにしてきたから。

「何やってんだろ。篠原くんのこと、もう怖がったりしないって約束したのに」

 考えてみたら、わたしは寂しそうな篠原くんなんて見たことがなかったんだ。
 
わたしの部屋で勉強を教えてくれていた時の篠原くんは、笑顔で勉強を押し付けてくる勉強の鬼で、学校のテストのこととか、相談室のこととか、大事なことを相談もせずに勝手に進めちゃう人で、わたしが断れないように直前まで黙っているような意地悪な人で、だけど引きこもってた時に諦めずに話しかけ続けてくれたとっても優しい人だったから。

 わたしは、そういう篠原くんをちゃんと知ってるはずなんだ。篠原くんとは赤の他人なんかじゃ無い。だって篠原くんは、わたしの大切な“友達”なんだから。

 ようやく、ずっと感じていた違和感の正体に気づいて、わたしは篠原くんと話してみようと思った。もしかしたら、わたしの中にある違和感を、篠原くんも感じているかもしれないから。






 掃除の時間、教室を抜け出して篠原くんの後を追った。

 篠原くんは今日、教室のゴミ出し当番だ。大きな袋を持って、校舎裏のごみ置き場へと向かっている。人目も無いし、今のタイミングなら話しかけられるかもしれない。

 篠原くんは、ゴミ置き場にごみを置いて立ち去ろうとしている。早く話しかけなきゃと迷っているうちに、篠原くんは制服のポケットを探ってスマホを取り出した。

 あーあ、誰かと電話始めちゃったよ。話すタイミング失っちゃった。もっと早めに声かけてれば――。

「どうしたの、何かあった?」

 篠原くんの澄んだ声がわたしの耳まで届いた。

 あれ、何だろうこの感じ。なんか覚えがある。篠原くんの様子を見ていて、懐かしいような、嬉しいような感情が込み上げる。
 この感じ知ってる。覚えてる。優し気な声のトーンと、寄り添ってくれるような暖かな気遣い。わたしが一番知ってる篠原くんだ。

「あぁ、その問題か。それなら今日そっちへ行くから、その時に教えるよ――うん、うん。分かってる」

 篠原くんがスマホを耳に当てたまま戻ってきた。慌てて物陰に隠れて息をひそめる。時折篠原くんがくすくす笑った。細めた目が楽しそうで、教室で見た寂しそうな雰囲気が消えている。

「ねぇ、この前、貸してくれた恋愛小説を読んだよ」

 篠原くんが恋愛小説……!? わたしの記憶では、篠原くんは絶対に恋愛モノは読まない。わたしはさらに耳をそば立てて、注意深く篠原くんの話を聞いた。

「感想? うーん、不思議だった……かな。読んだことないジャンルだったから」

 篠原くんが苦笑している。篠原くんの話からでは、どんな小説なのかまでは分からなかった。

 わたしは篠原くんを見つめたまま、混乱した頭をどうにか整理しようとしていた。わたしの記憶では、篠原くんは学校に行けてなかったわたしの勉強を教えてくれていた。おかげでテストの点数も良くなったはずだ。それで、一緒に過ごすうちに少しずつ篠原くんとも話せるようになって、一緒に水族館にも行って――。

 ……学校に行けてない? あれ、でも、わたし、毎日ちゃんと学校に来てるし、勉強は苦手なままだ。学校に行けていないのも、勉強を篠原くんから教わっているのも、わたしじゃないんだ。

 でも、どうして? 篠原くんは一体誰と話してるんだろう。そういえば、うちのクラスに一人だけ空いてる席があった。あの席って、たしか……。

「そういえば、近所に新しくお花屋さんが出来たの知ってる? もしよければ今度、――あぁ、ごめん。電話切るね」

 篠原くんは電話を切って、呆然と立ちすくんでいるわたしを前に戸惑ったように見据えた。思わず物陰から出てきてしまったけど、なんかもう、わけがわからなくて言葉が出てこない。

「津田さん? どうしたの?」

 少し驚いた顔をして、すぐに柔らかく微笑まれる。

「あっ……いや……そのー……」

 篠原くんの表情は見慣れていたはずだったから、その笑顔は嘘っぱちだってすぐにわかった。だって目の奥が迷惑そうな色をしてる。そっか、篠原くんにとって今のわたしって、本当にモブなんだ。凄くどうでもいいし、絡まれたら迷惑なだけの何処にでもいる女子と同じなんだ。

 めちゃくちゃ痛いじゃん、わたし。篠原くんと友達だなんて思い込んで、こんなところまで追いかけてきちゃうんだから。

「す、すいませんでした!」