「っ……」

 帰りのHR《ホームルーム》後。咲乃がカバンを手に取ると、硬い感触と共に、肌に冷たい違和感が走った。
 手のひらを見ると、中指の中節部から赤い線が走っている。そこから滲むように血の球が浮き出てきた。薄く皮膚を切ったようだ。深い傷ではないが、存在を主張するように小さな痛みが脈打っている。

「篠原、また明日なー」

「うん、また明日」

 咲乃は、神谷に気付かれないよう、血の付いた手を握りしめた。

 神谷が教室を出て行ってから、咲乃はカバンの持ち手を確認すると、ちょうど真ん中あたりに、家庭科で使う刺繍針が刺さっていた。

 移動教室中に仕込まれたのか。

 保健室に絆創膏だけもらってこようと、咲乃は机の上にカバンを残して、教室を出て行った。



 教室に誰もいなくなった頃、結子は人目を忍んでそっと教室に戻ってきた。
 なるべく足音が響かないよう静かに歩く。他に人の気配がないかに気を配りつつ近づいたのは、咲乃の机だ。

 どきどきする胸を抑え、そっと机の上に手を当てた。静かに目を瞑る。

 ――退屈そうに頬杖を付きながら、窓の外を見ている篠原くん――静かに読書をして過ごす篠原くん――友達と話しているときの篠原くん――授業に真面目に取り組む篠原くん……。
 結子の席から見た、色んな彼の姿が、色鮮やかに瞼の裏に浮かび上がる。最後に浮かんできたのは、結子に笑いかけた時の彼の顔だった。

 ゆっくりと目を開く。息をするのが苦しいほど、胸の奥がどきどきしている。人差し指で咲乃の机に「好き」と書いた。
 好きな人に告白されるおまじない。おまじないをかけるときは、けして誰にも見られてはいけないという決まりがある。

 ようやく机から手を放すと、やり遂げたことへの達成感で、ほっと息をついた。

「中本さんはまだ帰らないの?」

 心臓が止まるかと思った。勢いよく後ろを振り返ると、にこにこ笑っている咲乃がいた。全身から血の気が引く。

「しっ……篠原くん……!!」

「俺の席に何か用?」

「えっ、えっと、こ、これは……」

 咲乃に尋ねられ、結子は答えられずに後退った。さがった拍子に、咲乃の机が腰に当たる。心臓が飛び出るかと思うほどにびっくりして、結子は体を震わせた。

 見られたかもしれないと思うと、絶望的な気持ちになった。
 もし、軽蔑されたら。勝手に人の机でおまじないなんかして、気味悪がられたら。一方的に好意を向けられて、迷惑に思われたら。篠原くんに、嫌われたら――。

「ご、ごめんなさいっ!」

 咄嗟に逃げようとして、あっけなく咲乃に腕を掴まれてしまう。結子は怯えながら咲乃を見上げた。

「中本さん、少し話をしない?」

 怖いくらい穏やかに微笑む咲乃に、結子は今にも泣き出しそうになった。



 咲乃に促され、結子は椅子に座った。向き合うように、咲乃も近くの席に座る。面と向かった形に居心地の悪さを感じて、うつむいたまま手をもじもじさせていると、くすくすと声がした。
 結子は目に涙をためたまま呆けた顔で見返した。
 咲乃が声を押し殺して笑っている。結子は、なぜ笑われているのか、さっぱり分からなかった。

「中本さんて、不思議なことをするよね」

 咲乃があまりにも可笑しそうに笑うせいで、すっかり気の抜けた結子は目を瞬かせた。

「おっ、怒ってないの?」

「怒ってるわけじゃないんだ。ただ、少し怪しかったよ。でも、すごく辺りを警戒しているわりには、背中が無防備だなって」

 肩を揺らして笑う咲乃に、結子の顔が熱くなった。

「わ……、渡したいものが……あって……」

「ん?」

 結子が出したのは小さなクラフト袋だった。開け口の部分は、お花のシールで閉じられている。

 咲乃に「開けてもいい?」と聞かれ、結子は小さく頷いた。

 透明の包装袋にはクッキーが入っていて、メッセージカードが差し込んである。


“篠原君へ。体育の時のこと、ごめんなさい”

 咲乃がメッセージカードを読むと、結子は机の下でスカートの裾をぎゅっと握りしめた。

「……どう、渡せばいいのかわからなくて。結局、放課後になっちゃって……。まだ、カバンがあったから、そのの中にいれようと……」

 今日は諦めて持って帰るつもりだった。だか、結子がトイレから戻ってくると、まだ咲乃の机の上にカバンが置かれているのを見て、手作りクッキーを中に入れておくつもりだったのだ。

「いきなり話しかけて、迷惑を掛けたく無かった……から」

「迷惑だなんて思わないよ。ありがとう、中本さん」

 結子はうつむいたまま首を横に振った。

「私、クラスで印象薄いし、居ないみたいなものだから。こんな私が声を掛けたら、篠原くんに迷惑を掛けちゃう。だから、どうやって謝ったらいいのか分からなくて……」

 結子の手の甲に水滴が落ちた。