神谷と咲乃が廊下を歩いていると、クラスメイトの女子が咲乃に駆け寄った。

「篠原くん、職員室で増田先生が呼んでたよ」

「分かった。田中さん、伝えてくれてありがとう」

 咲乃は女子に礼をいうと、神谷と別れて職員室へ向かった。呼び出された理由には心当たりがあった。

 職員室では、増田先生が嬉しそうに咲乃の肩を叩いた。

「スクールカウンセラーの先生が、津田を見てくれるそうだぞ」

「本当ですか?」

 去年度まで相談室の先生がいなかった英至中学校に、今年の4月から新しくスクールカウンセラーが配属されることになった。咲乃はスクールカウンセラーの存在を知ると、成海を見てもらえないかと、担任にお願いしていたのだ。

「あぁ、日高先生も是非にと仰っていたぞ。津田も来年には、進路のことも考えないといけないからな。これも、篠原のおかげだな」

「いえ、先生方の助けがあってこそです。ありがとうございました」

 今まで不登校生徒を持て余していた担任が、ここまで協力する様になったのは、成海の努力の結果でもある。テストの結果が良かったおかげで、勉学に十分の意欲があると示すことが出来たのだ。

「スクールカウンセラーの先生がいらっしゃるのは、週に2回の13時から17時の間のみだ。その間であれば、津田のことを見られるとおっしゃっている。学習面では、各教科の先生が出した課題を提出してもらうことになるから、相談室登校が出来て課題をきちんと提出できれば、多少は内申が付けられるぞ」

「ありがとうございます。それでは、スクールカウンセラーの先生と一度お話しさせていただけませんか? 津田さんの近況を、先にお伝えしたいので」

「わかった。スクールカウンセラーの先生に、面談の予約を取っておこう」

「お願いします」

 成海の学校復帰は、彼女がテストを受けた頃から考えていたことだった。学校生活に、成海は強い不安を感じている。復学の意思も弱い。そんな彼女を復学せられるかどうかは、咲乃にとっても大きな課題だった。






 数学の時間、咲乃の前の席に座る神谷が、身体を捻って後ろを振り向いた。

「なぁ、篠原。消しゴム貸してくんない?」

「忘れたの?」

「失くしちゃってさぁ」

「昨日も、シャーペンを無くしてなかった?」

 最近、神谷は失くし物が多い気がする。この前は、持って来たはずのタオルがないと大騒ぎしていた。

 咲乃は、自分が持っていた消しゴムを半分に割って神谷に渡した。

「はい。返さなくていいから」

「サンキュー、助かる」
 
 神谷は全く悪びれない様子で、調子よく礼を言った。

 授業が終わると、神谷は心底うんざりしたように机にあごを乗せてため息をついた。

「次の授業古文かぁ。あの授業で最後まで起きてられる奴いんのかよ」

「わかる。坂本先生だもんな」

 いつもは真面目な重田も共感してしまうほど、古文の授業はどの生徒にとっても鬼門だった。
 坂本先生は、60歳のおじいちゃん先生で、ゆっくりとした喋り方に活舌の悪さが相まって、生徒は皆、襲い来る睡魔に抗いきれずに眠ってしまう。特に昼食後の一番眠い午後の時間に重なると、起きているのも困難なほど強力な睡魔が襲ってくるのだ。

「神谷くん、ちょっといい?」

「んぁ?」

 神谷が既に眠そうに大あくびをしていると、山口彩美が、神谷の席の前に立っていた。彩美は怒った顔で神谷を睨みつけている。

「神谷くん、さっき篠原くんに消しゴム借りてたでしょ。あんた、これで何度目?」

「消しゴム借りたのは今日が初めてだな」

「消しゴムのことだけ言ってんじゃないの! 借り物ばっかりして、篠原くんに迷惑だとは思わないわけ? 自分の物くらいちゃんと管理しなよ!」

 とぼけるように神谷が答えると、彩美が強く神谷の机を叩いた。

「はぁ? なんでお前にキレられなきゃなんねーんだよ」

 今にも言い合いが始まりそうな空気だ。咲乃は穏やかに微笑みつつ、二人の間に割って入った。

「山口さん、俺は別に大丈夫だから」

「だって、篠原くんが大変そうなんだもん。神谷くん、全然反省しないし」

 彩美は、不満気にぷっくり可愛らしく頬を膨らませて言った。

「キャラ変わりすぎだろ」

「あ゛ぁ゛!?」

 神谷がぽつりと毒づくと、彩美がドスの利いた声で振り向いた。
 咲乃は、まぁまぁと彩美をなだめた。

「本当に大丈夫だから。心配してくれてありがとう、山口さん」