悠真と日下は、匿名の通報によって救急車で運ばれた。目を覚ますと、悠真は病院のベッドの上にいて、うすぼんやりとした思考の中で、どうやら自分は助かったのだということだけは理解できた。

 病院には担任や学校の関係者、警察などが来て、一体何があったのか、悠真と日下は事情聴取を受けた。悠真と日下は、須賀をはじめとした数人の高校生にやられたことを正直に話した。しかし一方で、遠藤沙織が関わっていることや、成海が狙われていたことなどは話さなかった。これ以上、成海を面倒事に巻き込むつもりはなかったし、沙織には、悠真なりに多少の罪悪感があったからだった。後日、両親から、須賀が警察に逮捕されたことが伝えられた。

 外傷の浅かった日下は適切な処置を受けた後、1日で退院したが、顔に打撲傷や腫れの酷かった悠真は、骨や脳に異常はないかの検査入院をすることになった。

 入院してすぐのこと、初めに見舞いに来たのは、驚くべきことに西田だった。

 西田は一人で悠真の病室に訪れると、緊張しているのか気まずいのか、視線を落としたまま「……あ、あの後、病院に運ばれたって聞いて来たんだけど……」と、もごもごしながら言った。

「こ、これ、一応、お菓子買ってきたから。ジュースもあるし……」

 律儀にも見舞いの品まで買ってきたようだ。スナック菓子とスポーツ飲料の入ったコンビニ袋を、ベッドテーブルの上に置いた。

「なんで来た?」

 悠真が訝しんで尋ねると、西田は初めて視線を上げ、しっかりと悠真を見た。

「高校生にかなりやられたって聞いて、どんな顔してるんだろうって思ってさ。見に来たんだ」

 今まで酷いことをしてきたヤツが痛い目にあったのを見に来たらしい。

「言うようになったじゃん」

 悠真は、西田の正直すぎる答えに苦笑した。

「そこにあるスマホ、津田のなんだ。代わりに渡してやってよ」

 悠真は、ベッドテーブルに置いていた成海のスマホに目をやる。
 西田は、成海のスマホを手に取ると、このままここにいる用事はないと思ったのか、「じゃあ、僕はもうここで……」と、そそくさと逃げるように、悠真に背を向けた。

「今まで悪かったな」

 悠真がつぶやくように謝る。西田の足が止まった。

「……今までされてきたこと、別に忘れたわけじゃなかったからさ」

 西田が、小さな声で言った。

「新島くんの顔を見たら、多少はスカッとするかと思ってたんだけど……。よく考えてみたら、僕、ゲームとかアニメのグロ表現は平気なのに、リアルに痛そうなのを見るのは、苦手だったんだよね……だから、もう、いいよ」

 西田は、悠真に背を向けたまま、自嘲気味に言った。そして何かを決意するように背筋を伸ばした。

「ありがとう、津田さんを守ろうとしてくれて」

 最後に一言そう言うと、西田は足早に病室を後にする。
 残された悠真は、この時はじめて、自分が思っていたよりも、西田は強い奴だったのかもしれないと思った。


 検査も済み、退院すると、打撲傷による顔の腫れが引いた頃に、悠真は復学した。

 学校に戻るとそこには、いつも通りの、何の変わりのない日常が広がっていた。

 悠真にとっては、退屈で色ざめた日常だ。それでも悠真は、ここに戻れて良かったと、心から思う。
 危うく失うところだった。大切な親友も、日常も。

 朝の会が始まると、悠真は担任からの連絡事項をなんとなしに聞き流し、ふと視線を、成海の席へ向けた。

 そこに、成海の姿はない。空いた成海の席は、窓から差す柔い日差しを受けて、静かに輝いていた。





「話って何」

 沙織は、不機嫌そうに悠真に尋ねた。大人びたきれいな顔には、突然悠真に呼び出されたことへの戸惑いと、気まずそうな様子が見て取れる。

 悠真は、沙織を体育館裏に呼び出すと、コンクリートの階段に座って待っていた。

「悪いな、呼び出して」

「別に」

 悠真がいつもの軽口で沙織に謝ると、沙織は短く切り捨てるようにこたえた。

 悠真が、自分の隣りに座るように視線で示す。沙織は少し躊躇した後、悠真の隣りに座った。かつて恋人同士だったふたりは、互いに顔を合わせることもない。同じ視線になって、フェンスの外を眺めた。

「……大丈夫なの? 怪我の調子は」

 少しの沈黙のあと、沙織の方から質問があった。

「顔の方は割とな。身体はまだ痛い」

「そうなんだ」

 悠真が応えると、安心したように沙織が頷く。そして、再び沈黙が訪れた。フェンス越しに、白い一般車が通り過ぎていくのが見えた。

「アイツのこと、平気?」

 次に訪ねたのは、悠真の方だった。

「アイツって、梗夜のこと?」

 沙織が尋ねると、悠真は「あぁ」と言って頷いた。

「別に、連絡取ってないし」

「そっか」

 気まずい沈黙。途切れがちの会話。沙織といて、今までこんなに気まずくなったことはなかった。

「救急車呼んでくれたの、沙織でしょ」

「……さすがにヤバそうだったから」

 悠真が尋ねると、沙織が気まずそうにこたえた。

「梗夜に殴られてぐったりしてる悠真を見て、本当に死んじゃうかもって思って……怖くなって」

「そっか。なんとなく、沙織だったんじゃないかって思ってたんだ。ありがとな、助けてくれて」

 悠真が礼を言うと、沙織は居心地悪そうに膝を抱きかかえた。

「悠真が悪いんだよ。急に別れるなんて言うから」

「ごめん」

 悠真が素直に謝る。沙織は唇をかんでうつむいた。

「悠真と別れたくなかった。なんで急に別れることになったのかわかんないよ」

 沙織から見た悠真は、何もかもが完璧な彼氏で、いつも沙織を、可愛い、好きだと言ってくれた。いつも自分を優先してくれる彼に、沙織は大切にされていると疑わなかった。
 それなのに、ある日突然、沙織が悠真にLINEを送っても返信をくれなくなった。通話をかけても取ってくれない。学校を休むようになった悠真を心配して、家まで行っても、まともに取り合ってもくれなかった。

 そんな日が続いたある夜に、久しぶりに悠真からLINEが来た。トーク画面には「別れよう」の一言のみがあった。いくら理由を尋ねても、既にブロックされていて既読すらつかない。自分の何が悪かったのかを考えても、はっきりした理由は思い至らなかった。

 久しぶりに学校に来た悠真は、沙織が嫌っていた津田成海の味方をした。それがショックで許せなくて、消化できな苛立ちは膨らむばかりで、悠真や成海への憎悪を膨らませていったのだ。

「ごめんな」

 悠真が静かに謝ると、沙織はスカートのすそを握固くり締めた。

「なんで? うちなんかした? 気に入らないことあったなら、ちゃんと言ってよ! なんで、何も言ってくれなかったの? なんで――、なにがダメだったの?」

 悲しみや悔しさ、怒り。いろんな感情がない交ぜになって、膨大な数の疑問を吐き出す。悠真はただそれを静かに受け取っていた。今まで自分が見ないようにしてきた、沙織の感情だ。面倒臭いと粗雑にした報いだ。

 ありったけの疑問を放出した後、沙織は息を切らしていた。怒りで竦む肩を上下に揺らして、スカートのすそを握りしめた手の甲は白くなっている。
 悠真は沙織が落ち着くのを待った後、静かに話し始めた。

「もう、どうでもよくなったんだ。何もかも」

「は?」

 沙織は勢いよく立ち上がると、納得ができないと言うような顔で、悠真を見下ろした。

「何それ。意味わかんない。どうでもよくなったって、なにが?」

 責め立てるように沙織が尋ねる。悠真はなおも静かな口調で続けた。

「俺たちってさ、すげぇ似てたじゃん。考え方とか、価値観とか。怠い奴とか、つまんねー奴排除して、自分が目障だと思った奴いじめてたじゃん。でも、なんかそういうの、急につまんなくなっちゃってさ。沙織に共感することが、出来なくなった」

 今まで自分が、当然のようにしていた行為がつまらなくなってから、自分の彼女が愛せなくなってしまった。沙織があまりにも自分と似ていたから、自分に何もないのだと気づいたとたん、急に沙織に対する関心が薄れてしまったのだ。

「なにそれ……。勝手じゃん、そんなの」

「勝手だよ。っていうか、俺ってもともとそういう奴だし」

 今更気づいたのかと、悠真が冗談まじりに肩をすくめる。沙織は、きつく悠真を睨んだ。悠真は苦笑した後、視線を落とした。

「なんか、全部意味ないなって。誰かを下げて自分の場所(地位)守ってんの。そんなことやっても、自分がペラいの変わんないから。だから、今は恋愛とかより、自分の時間がほしいんだ。自分はこれからどうしたいのか、ちゃんと考えたい」

 自分の気持ちを、改めて誰かに吐露したのは初めてだった。心の中で考えていたことを、初めて言葉として形にしたとき、心の中にすとんと腑に落ちるものがあった。自分の中に実感を与えた確かな感覚に、こんなにも全身に響き渡るのを感じたのは、初めてだと思った。

「……は……自分探しとか、ダッサ」

「たしかに。でも、決めたから」

 眉を寄せて不愉快そうに言い捨てる沙織に、悠真は苦笑した。自分でも、さすがにこれはダサいとは思う。
 自分がわからないなんて思春期丸出しの悩み、こんな時ではないと、恥ずかしくて他人(ひと)に言えたものではない。

「好きにすれば。うちも悠真に冷めた」

 沙織はため息交じりにそう言うと、もう気が済んだとばかりに、悠真に背を向けて、校舎に向かって歩き出した。悠真はそんな彼女の後姿を見送るうちに、ふとひとつの疑念がよぎって、慌てて沙織に声をかけた。

須賀(アイツ)とは続けんの?」

 あの須賀という男と付き合っていて良い事なんて絶対にない。悠真が沙織に問いかけると、沙織は振り返り、改めて悠真を睨みつけた。

「悠真には関係ないでしょ!」

 沙織はくるりと向きを変えて、再び校舎へと歩いていく。悠真は小さく笑って「そりゃそうか」と独り言ちた。





 冬の空気を感じる、冷たく澄んだ朝。地面に落ちた枯葉が、風にすくわれてカラカラ音を立てて転がるのを眺めながら、悠真はいつもの公園で、成海が来るのを待っていた。
 入院中に送った、成海の安否を確認したLINEは、未だに既読が付いてない。直接家まで迎えに行くこともできるが、それではきっと成海の負担になってしまうだろう。

 待ち合わせ時間を過ぎ、登校時間ぎりぎりになっても、成海は現れなかった。
 悠真は時間を確認すると、諦めてひとりで学校へ向かう。
 成海が学校に来なくなってから、短い秋はとうに過ぎ、冬が来た。今でも悠真は朝の登校に、待ち合わせの公園で待ち続けている。