体育祭の後は、すぐに合唱コンクールの準備が行われ、クラスで歌う曲を決めた後、音楽の授業や、昼休みを使って歌の練習をした。ピアノ担当は澤田さん。指揮は篠原くんが担当することになった。篠原くんがピアノを弾いているところは見たかったけど、指揮をしている篠原くんも眼福なので、これはこれでオッケーだ。

 昼休み中に、皆で合唱曲の歌の練習をしているときだった。廊下を、山口さんが友達の女の子と通りかかったのを見かけた。ちなちゃんの怪我は軽いねん挫で、一週間もすれば治る程度のものだったけど、それでもわたしの胸の中に、もやもやとしたものが蘇る。

 篠原くんは、あっさり山口さんのことを許しちゃったけど、わたしは未だに納得してない。山口さんは自分じゃないって言ったけど、絶対に嘘だと思うし、ちなちゃんはあんなに怖がっていたのに、なかったことみたいになっているのが、すごく腹立たしかった。

 ……篠原くんからの忠告のおかげか、ちなちゃんへの嫌がらせは、ここ最近ないみたいだけど。でもそんなの、山口さんがやったと言っているも同然じゃないか。

「――さん。津田さん」

「あっ、はい!」

 はっとして、篠原くんの方を見る。指揮棒を持った篠原くんが、にこりと笑った。

「集中」

「……すみません」

 篠原くんが、「○○から入ります」と指示を出す。指揮棒を振ると、ピアノの伴奏が始まった。




「篠原くんは甘すぎます! わたしは納得できません!」

 図書室の勉強スペースで、譜面の確認をしていた篠原くんに、わたしはついに抗議した。篠原くんは、珍しそうにわたしを見上げる。

「学校で話しかけるなんて、大丈夫なの?」

「……だから、こっそり話しかけてるんじゃないですか」

 教室ではなかなか話しかけられないけれど、図書室の勉強スペースは図書室の一番奥まった場所にあるため、いつも開いていて、他人に見られる心配は少ない。大きな声さえ出さなければ、注意されることも無いし、勉強会まで待てるほど、わたしの腹の虫は治まってはくれないだろう。
 嫌がらせがなくなったとはいえ、ちなちゃんが受けた心の傷は深いのだ。それなのに、山口さん(やった本人)には何のお咎めもないなんて、あまりに酷い話ではないか。

 わたしが篠原くんにそう伝えると、篠原くんは考えるように視線を上にずらした。

「言ったはずだよ。“嫌がらせの件とは分けて考えよう”って」

「それですよ、それ! あの件以来、嫌がらせは収まったんですよ? どう考えても山口さんが怪しいじゃないですか!」

 わたしがなおも食い下がると、篠原くんの視線はまた譜面に戻ってしまった。

「こうも言ったはずだ。“今回は、先生には言わない”って」

「だから、それが納得できないって――」

「証拠がないんだ」

「へ?」

 篠原くんに遮られた言葉に、目をぱちくりさせた。

「で、でも……芦輪さんが見たって……」

「そうだね。芦輪さんは見たって言っている。けれど、それはあくまで、本田さん(・・・・)側の証言でしかないでしょう?」

「え……。どういうことですか?」

 わたしは混乱して、まじまじと篠原くんを見た。ちなちゃん側の証言って、まるで、ちなちゃんの友達が嘘をついてるみたいな言い方だ。

「証拠がないんだよ。山口さんがやったという証拠も、山口さんはやってないという証拠も、本田さんがやられたという証拠も。今は何もないんだ」

 ちなちゃんが、やられた(・・・・)っていう証拠……?
 証拠もなにも、被害者であるちなちゃんが、嘘をついてるわけないよね?

 益々訳が分からなくなって、わたしは唖然と篠原くんを見る。篠原くんは、ちなちゃんを信じていないのだろうか。

 わたしが混乱しているのを知ってか知らずか、篠原くんは楽譜から目を上げると、わたしの目をじっと見つめ返した。

「もし、何らかの誤解があって、怪我をさせた犯人が山口さんではなかったとわかった時、先生に話して大ごとになった後では取り返しがつかないんだ」

 篠原くんは、とんとんと人差し指で譜面を叩きながら言った。

「山口さんはやってないと言ってる以上、一方的に本人を責めることはできない。やったのが山口さんであるという証拠が出ない限り」

 篠原くんに理路整然と詰められて、なにも言えなくなってしまった。

 目撃者はいるのに、それが証拠にならないなんて考えもしなかった。わたしはすっかり、山口さんがちなちゃんに怪我をさせたと信じ込んでしまっていた。……というか、そうであってほしいと思ってた。だって、傷ついてるちなちゃんなんて見たくなかったから。一刻も早く解決してほしいと願っていたからだ。

 でも、わたしのこの想いは、篠原くんにとってきっと意味がない(・・・・・)んだ。だって、その想いで判断したことが、正しいとは限らないから。

「……でも、篠原くん。証拠なんて、そう簡単に出るでしょうか……?」

 直情的にものごとを決めつけてしまっていた自分が恥ずかしくなって、情けなさ半分、悔しさ半分で、つい声に棘がこもった。

「どうだろう。俺なりに、色々探ってはいるけれど」

 本当に、篠原くんはなにもわかっていないのだろうか。本当は全部分かっていて、はぐらかされている気さえしてきた。わたしが直情的なバカだから、教えてくれないのかもしれない。

 悔しい気持ちが顔に出ていたのだろう。篠原くんは、指で譜面をとんとんするのを止めると、困ったように笑った。

「津田さんには、俺を信じていて欲しかったな」

 ゆらりと首をかしげる。寂しそうな目をして、わたしを見上げた。

「……失望させた?」

 思わず、うっと言葉に詰まった。ちなちゃんの悲しそうな顔にも弱いけど、篠原くんの悲しそうな顔にも、わたしは弱いのだ。

「……して……ない……です……」

 絞り出すように言葉を吐き出す。論理的に詰めてきて、最後は情に訴えかけるって、かなりずるくないですかね?

 これはもう、わたしの完敗だ。わたしに太刀打ちできるところなんて何一つない。がっくりとうなだれていると、篠原くんは静かに言葉を吐いた。

「本田さんに怪我をさせてしまったのは、俺の責任だったから、失望されても仕方ないと思ってる」

 わたしが、改めて篠原くんの顔を見る。篠原くんは、弱ったように微笑んだ。

「でも、津田さんには信じていてほしいんだ」

 次は、ちゃんと本田さんを守るから。

 小さくこぼすように、そう言った篠原くんには、明らかな悔しさが滲んでいた。

 篠原くんだって、本当は悔しかったはずなんだ。それなのに、わたしはちなちゃんのことでいっぱいで、篠原くんの気持ちまでは考えられていなかったのかもしれない。
 そもそもわたしには、篠原くんを責めることなんてできない。自分では、ちなちゃんを守ることもできないのだから。

「……すみませんでした、篠原くん。信じるって約束したのに。ちなちゃんのことを、お願いしますね」

 わたしは改めて、篠原くんにお願いした。篠原くんのことを、もっとちゃんと信じなきゃって改めて思う。だって、ちなちゃんも、篠原くんも、わたしにとっては大事な友達だから。