5組の教室で、稚奈に腕を巻きつかれ、稚奈の友達に囲まれている咲乃を見ても幸せそうには感じなかった。立場上人前に立つことの多い咲乃だが、そもそも、彼は無暗に注目されることを好まない。まるで稚奈と一緒にいる時の咲乃は、稚奈の装飾品(アクセサリー)だ。周りの友人たちは、稚奈の『完璧な彼氏』を羨み、憧れから稚奈を尊敬する。稚奈は自身の『完璧な彼氏』を見せびらかして愉悦に浸る。そこにはきっと、一方的な陶酔しきった恋情しかない。きっと咲乃は稚奈の何かに囚われている。彩美にはどうしても、咲乃が望んで本田稚奈と付き合っているようには見えなかった。

「でも、だめだった。余計なことをして、また篠原くんに嫌がられちゃった」

 咲乃が何かに囚われているなら、彩美が解放してあげたかった。助けてあげたかった。きっと彼は助けを求めているのだと、彩美は思っていた。だが実際は違った。咲乃は助けなど求めていなかったのだ。
 咲乃に必要とされたくて伸ばした手は、あっさり払われてしまった。それでも諦めきれなかったのは、幸せそうには見えない彼を、放ってはおけなかったから。

「篠原くんは、絶対に本田さんなんか好きじゃないって信じてた。……でも、でもあんなの見ちゃったら……」

 いままで気丈に振る舞っていたのに、言葉が喉の奥に詰まった。止まっていた涙が再びあふれだす。

「篠原くんは本田さんのこと、本当に好きなんだ。じゃないと……あんな……キス、なんて……」

「好きじゃなくても、付き合ってんならすんだろ。普通に」

「はぁ!??」

 平然と言う神谷の言葉に、彩美は信じられないものを見るような目をして声を上げた。

 多少ませているとは言え、彩美はまだ恋愛経験の乏しい中学生だ。他人のキスなど、映画やドラマでしか見たことが無い。そのほとんどが、憧れるようなロマンチックなものばかりだったから、彩美にとってキスとは、好きな人とするものだったのだ。

「こんな時に、変な冗談は止めてよ! し、篠原くんが、すすす、するわけないでしょ! あんたじゃないんだから!!」

「いや、篠原だって普通にすんだろ」

「うそうそうそ! 絶対嘘! 篠原くんは、好きでもない人とキスするような人じゃない! 篠原くんは絶対にそんなことしないの!!」

「いいや、するね。そもそも、あいつ前の学校では彼女いたっぽいし、ヤルことは大体ヤってんじゃねーかって俺は思ってる」

「いやぁあああっ、聞きたくなーい!!!!」

 彩美は両手で耳を塞いだ。前の学校に彼女がいたこともショックだったが、神谷に彩美の中のきれいな篠原咲乃像が汚されてしまうのが耐えられなかった。

 そんな彩美に、神谷は悪びれもせずに呆れた顔をして、やれやれと頭を振った。

「山口は、篠原に夢見すぎなんだよ。本当に篠原のことが知りたかったら、現実の篠原を見るべきだと俺は思う」

 神谷のクセに正論を吐いてくるから、彩美はよけいに泣きたくなった。咲乃は確かに、他の男子にくらべて大人びてはいるけれど、それは彼が高潔だからだと思っていたのだ。

「まぁ、落ち着けよ。ジュース買ってやっから」

「お金貸してくれるだけでしょ!? もう十分です!!」

 彩美の気分はどん底までに落ち込んでいるのに、神谷の慰めがまったく慰めにならない。彩美は愕然として、遠くを見つめた。もう、涙も出てこなかった。本当に、篠原くんは好きでもない女の子とキスをするのだろうか。だとしたら、彩美が思う咲乃は、思ったよりも高潔でも何でもないのかもしれない。

 だとしたら、まだ諦めなくても……いいのかな。

「ねぇ、神谷くん。神谷くんは、知ってるんじゃないの? 篠原くんと、本田さんのこと」

 もとはと言えば、彩美がふたりの仲に疑問を抱いたのは神谷の態度のせいでもあった。咲乃に恋人ができたのに、神谷が無頓着だったことがより不自然さを際立たせていたのだ。

 神谷は絶対に何か知っている。今まで直接神谷に聞こうとしなかったのは、神谷にだけは貸しをつくりたくなかったからだ。だが、最早そんなことも言ってられない。稚奈から咲乃を引き離すチャンスがあるのなら、悪魔(かみや)にだって魂を売ってやる。

 彩美が期待して神谷に尋ねると。神谷は肩をすくめた。

「残念だけど、言うつもりはねーよ。篠原には色々と釘さされてっから」

「なっ! なんでよ!? 誰にでもペラペラ喋っちゃうアンタが、なんでこんな時に限って約束なんて守るの!?」

 あの神谷が、人との約束を守って秘密を喋らないなんてことがあるのか。彩美が唖然としていると、神谷は意地悪くニヤっと笑った。

「そりゃあ、黙ってた方が面白くなるんなら、黙って見てるわな」

「……なにそれ、ホント最低」

 神谷という人間のイメージをけして裏切らない、本当に最低な理由だ。なぜ篠原くんは、こんな奴を信頼するのだろう。私のことは、まったく頼ってくれないのに。

 彩美は、不貞腐れた気持ちで足元を睨む。

「本当に言うつもりはないってことだよね」

 はじめて、自分が完全に蚊帳の外にいるのだと実感する。自分だって、咲乃のためになりたかったのに。彩美は、自身の無力さに深くため息をついた。

「まぁ、違和感に気付けただけでも十分じゃねぇか? 篠原のためになんかやりてーなら、その違和感をつつきまくってりゃ、何かしらは出てくんだろ」

「違和感をつつく? これ以上篠原くんにしつこく聞けって言うの?」

 そんなことをしたら、益々拒絶されてしまう。

 他人事だと思って適当なことを言う神谷に、彩美はムっとした。これ以上、余計なことをして咲乃に嫌われたくはなかった。

「んなわけねーだろ、バカだな。つつくべきポイントはそこじゃねぇ。お前の違和感の原因は本田だろ?」

「バっ……バカッて……!」

 そこでようやく彩美は、神谷の言いたいことが分かって、目を大きくした。

「そっか。私の違和感の原因は、本田さん(・・・・)なんだ」

 稚奈に何かを握られて、それで咲乃が付き合っているのだとしたら、探るべきは咲乃の方ではなく、稚奈の方だったのではないか。

 彩美は、勢いよくベンチから立ち上がった。


 篠原くんのために何かしたいなら、負けちゃだめなんだ。本田稚奈には、絶対に。


「私、諦めないでもう少し頑張ってみる。もしかしたら、それが篠原くんの助けになるかも!」

 篠原くんが何を思って、本田稚奈と一緒にいるのかはわからない。でも、本田稚奈といることが、咲乃のためになるとはどうしても思えない。

 彩美は強く決意すると、缶ジュースを近くのゴミ箱に放り投げた。

「ありがとう、神谷! 今日のは貸しね!」

 そう言って走り出した彩美に、神谷はやれやれと頭を振った。
 そしてベンチから立ち上がり、そろそろ勉強会の時間だろうと、時間を確認するつもりで制服のポケットを探る。触り慣れた自分のスマホカバーとは別の、装飾の付いたプラスチックカバーの感触が指に触れた。

「あ、スマホ」

 彩美に返すのを忘れていた。