やっと喋りたかった人の瞳に捉えられて、彩美の胸が、高揚感と共に甘い疼きを感じた。彩美は、自身の緊張を悟られないよう、咲乃に微笑み返した。

「本田さんと一緒じゃないんだ?」

 いないだろうと思ってきたのだ。いてもらっては困る。分かりきったことをあえて尋ねて、彩美は彼の反応を窺った。

「うん。一冊だけ借りに来ただけだったから」

「借りる本は決まったの?」

「もう決まったよ。これ――」

 そう言って、咲乃が本の表紙を、彩美にも見えるように掲げた。その本には、『錯綜(さくそう)QUINTET(クインテット)』と題されていた。

「昔読んだことがあったんだけど、また読みたくなって」

 北川啓司(きたがわ けいじ)著。彩美の知らない作家の、知らない題名の本だった。

「すごく難しそうな本……」

 普段読書をしない彩美の、精一杯の感想だった。咲乃はふふっと小さく笑うと、静かに首を横に振った。

「そんなことないよ。恋愛小説だしね」

「篠原くん、恋愛小説も読むの?」

 彩美は驚いて尋ねた。

「普段、恋愛の話はなかなか手が出ないんだけど、でも、これはミステリー要素もあって面白かったから」

 明朝体のタイトルだけが記された、いかにも堅く重厚感たっぷりな表紙からは、恋愛小説とは思えない近寄り難さを放っている。

「どんなお話なの?」

 彩美が尋ねると、咲乃は困ったように苦笑した。

「恋愛小説と言っても、生憎、きれいな話じゃないんだ。むしろ重いっていうか、5人の男女の関係が複雑に絡み合う、嘘と偽りがテーマの物語だから」

 内容を聞く限りは、昼ドラにミステリー要素を足したお話しだろうか。なんだか、ドロドロしていそうで、益々難しい感じがしてくる。

「山口さんは、何か借りるの?」

 話題を変えるように咲乃に尋ねられて、彩美は慌てて「ええっと、何にしようかな……」と言いつつ本棚に目を走らせた。もともと本を借りる予定はなかったので、彩美は、パッと目についた本を適当に抜き出した。

「これにしようかな」

 彩美が咲乃に選んだ本を見せる。柔らかいタッチのイラストが目に引く表紙で、こちらは彩美でも読みやすそうな印象がある。背表紙のあらすじにも、恋愛小説であることが書かれていた。

 咲乃と共に本の貸出処理を済ませると、一緒に図書室を出た。どちらからともなく、そのままの流れで一緒に教室に戻る。
 彩美は、隣が気になって、ちらちら横目で咲乃の様子を窺った。

「篠原くん、本田さんとはどう?」

 彩美がそれとなく尋ねると、咲乃は肩をすくめた。

「普通に、仲はいいんじゃないかな」

「そ、そっか。付き合ったばかりだもんね」

 自分で聞いておいて、胸が痛んだ。学校では、咲乃はいつでも稚奈といるし、登下校も一緒だ。仲が良いのは明らかなのに、自分は一体、どんな答えを望んでいたのだろう。彩美にはわからなかった。

「本田さんとは、いつから付き合ってたの?」

 努めて平静に、雑談をしているかのような何でもない口調で、彩美が尋ねる。

「夏休みの間に」

「もしかして、お祭りの後?」

 彩美の問いに、咲乃が頷いた。

「どっちから、告白したの?」

「本田さんからだよ」

 彩美は小さく、「そっか」とつぶやいた。思わず、本を持っていた手に力が入る。悔しさがこみ上げた。あの時、自分も近くにいたのに、稚奈に先を越されてしまった。

 嫌な予感はしていたのだ。なんとなく、ただ事ではないような予感が。でも、だからと言って、あの時自分に何ができたんだろう。お祭りに自分で咲乃を誘っていれば、状況は変わっていたのだろうか。

 ううん、それでは遅い、と彩美は思う。もっと早く、咲乃に告白していれば。一緒にデートしたあの日、観覧車に乗ったあの時に告白していれば、本田稚奈に咲乃を取られることも無かったのかもしれない。

「篠原くんは、本当に――」

 本当に、本田さんが好きなの? 問いかけようとしたところで――「篠原くん、いたいた!」

 はつらつとした元気な声が響いて、彩美ははっと目を向けた。本田稚奈が咲乃に駆け寄る。甘えるように彼の腕に自分の腕を絡めた。

「もう、稚奈も一緒に図書室行くって行ったじゃん! どうして置いてっちゃうの?」

 稚奈がすねたように言った。

「すぐに戻ってくるつもりだったんだ。ごめんね?」

 咲乃が穏やかになだめると、稚奈はふっくりと頬を膨らませた。

「次は稚奈も一緒に行くからね? 絶対だよ?!」

「わかったから。次は一緒に行こうね」

「うん!」

 咲乃に頭を撫でられ、稚奈は幸せそうに目を細めた。そして稚奈は、彩美を見ると、たった今まで気付かなかったとでも言うように、目を大きく見開いた。

「山口さんも、いたんだ」

 絡めた腕を身体に寄せて、稚奈が言った。彩美を警戒するような色が、瞳の中に帯びる。彩美はまっすぐ稚奈に向かって笑顔を向けた。

「篠原くんとは、たまたま図書室で会ったの。私も本を借りたかったから」

 彩美が応えると、稚奈はわかりやすく眉をひそめた。

「山口さんって、本読む人なんだ。稚奈、全然知らなかった」

 いくら彩美が取り繕ったところで、稚奈は彩美が嘘をついていることくらい気付いていた。どうせ、咲乃を目当てに図書室まで来たのだと。彩美が咲乃を狙っていたことは有名だったし、彩美が咲乃を簡単に諦めるはずがないことくらい分かっていた。

 彩美もまた、自分が咲乃に未練があることを、稚奈が気付いていることは分かっていた。

 しかし、彩美も稚奈も、お互いに表立って敵意を示したりはしない。咲乃の前でそんな見苦しい姿を晒すわけにもいかなかったし、たまたま(・・・・)図書室で鉢合わせただけの彩美を非難することは稚奈には出来ないからだ。一方彩美も、咲乃に甘える稚奈を非難することはできなかった。付き合っている彼女が彼氏に甘えるのは不自然ではないからだ。「見苦しいから人前でいちゃいちゃするな」と注意することもできたが、負け惜しみなどとは絶対に思われたくはなかった。

「そろそろチャイムがなるから、行こうか。またね、山口さん」

 不穏な状況を察したのだろう。咲乃が稚奈の腕を引いた。まるで彩美から稚奈を守るように、彼女を彩美から遠ざけると、さらりと軽く彩美に挨拶をして行ってしまった。

 残された彩美は、咲乃のその態度だけで傷ついて、本を握り締めたまま、廊下にひとりたたずんでいた。





 翌朝、廊下を塞ぐほどの人だかりが、5組の教室の前に出来ていた。

 騒ぎを聞きつけて、彩美は愛花と共に5組の前に訪れると、人垣をかき分けてなんとか教室の中を覗いた。そして、目に入った光景に、彩美たちは息を呑んだ。

 彩美が初めに目についたのは黒板だった。黒板には稚奈を罵倒する言葉が、チョークで大量に書きなぐられていた。

「何なの、これ……」

 ドラマなどの創作物で見たことがある、典型的ないやがらせ。それは実際に見るとあまりにも悲惨そのもので、現実離れしていて、彩美の口から思わず言葉が漏れた。

 それだけではない。稚奈の机には、油性ペンで大きく“死ね”と書かれている。

 稚奈は、自分の机の前に泣いていた。子供のように泣きじゃくる稚奈を、稚奈の友人たちが慰めている。

 明らかに、咲乃と付き合ったことによる弊害だった。あれだけ学校で騒ぎになったのだ。稚奈に嫉妬して、敵意を抱いた生徒もいたはずだ。今まで何もなかった事の方が不思議だったくらいだ。

「ごめん、後ろを通して」

 背後から声がかけられて、彩美は声の主を確認する間もなくその声に道を譲った。その横を、人陰がさっと横切る。

 咲乃だった。

「本田さん、大丈夫?」

「篠原くん……」

 稚奈は咲乃が来ると、瞳にいっぱい涙を浮かべて、咲乃に縋り付いて泣いた。咲乃は、稚奈をあやしつつ、顔を近づけて何か話を聞いている。

 傷ついて泣いている彼女を、大事そうになだめる咲乃を見て、彩美の中に狂ってしまいそうなほどの強い嫉妬心が湧き上がるのを感じていた。

「悪いけど、入口に集まるのはやめてもらえる? 他の人の迷惑になるから」

 咲乃の一言で、教室の前で様子を窺っていた野次馬たちがしぶしぶ解散しはじめた。

「行こー、彩美」

「……。うん」

 愛花に言われて、彩美は力なくうなずいた。愛花と教室まで戻る途中、同じように教室へ戻る女子たちの話し声が耳に届く。

「バカみたい。被害者面かよ」

「あれだけ調子に乗ってたら、ヘイト買うに決まってんじゃんね」

「あーあ、なんで篠原くん、本田さんなんかと付き合ってんだろ」

 彼女たちの嫌味を聞きながら、彩美は苛立ちと共に拳を握り締める。

 腹が立っていた。

 自分の彼氏を自慢して嫌がらせを受けている稚奈の浅はかさにも、女子たちの妬みのこもった陰口にも、そして、まるでその女子たちと同じように、野次馬として外で見ていることしかできなかった自分にも。

 咲乃に道を譲った時、咲乃の目には、一切自分の姿が入っていなかった。一緒にふたりきりで出かけたことのある彩美に対しても。咲乃の頭にあったのは稚奈のことだけで、近くにいた彩美のことなんて気付きもしなかった。

 ずっと信じていた。自分は篠原くんにとっては特別なはずだと。他の女子たちがなりたくてもなれなかった、篠原くんの、“友達”だと。咲乃が稚奈と付き合うまでは、誰よりも彼に近しい女友達だったはずなのに。

 でも今の自分は、篠原くんにとってただの、通行を妨げるだけの野次馬でしかない。完全なる蚊帳の外。

 彩美は目に熱が溜まるのを感じて、口をきつく引き結んだ。今にも漏れ出してしまいそうになる、嗚咽を呑み込む。

 自分が野次馬でしかないなんて、絶対に嫌だった。篠原くんにとって、自分がただのそこらの女子と変わらないなんて。

 そんなの、絶対に認めたくはなかった。