村上の小さな唸り声がくぐもって聞こえる。震えながら握られたこぶしが土を掴んだ。ぐっと、残りの力を振り絞って腕の力だけで前進する。もう片方の手を必死で伸ばし、悠真の足首を掴んだ。

 短く浅い息を吐く村上を見下ろす悠真には、表情がない。きっと今の悠真には、マネキンが地面に横たわっているようにしか見えていないのかもしれない。

 悠真は足首を掴む村上の腕を踏みつけた。骨に当たる鈍い音がした。

「ゲームを邪魔するやつは許さない。わかってんだろ。村上」


 村上が動けなくなるまで何度も殴り続ける悠真の姿に、見るに堪えなくなって日下はその場を離れた。


 いつから変わってしまったんだろう。答えの返ってこない疑問が何度も湧いて出る。

 いつから、悠真は変わった。なぜ、気付かなかった。悠真が変わってしまう前に。

 幼い頃から知っているはずだった。誰よりも悠真のことは分かっている自負があった。それなのに、今目の前にいる悠真が誰なのかわからない。ここにいる悠真は全く別の誰かだ。

 最近いろんなことを考える。様々な疑問や憶測、自責に後悔。あらゆる感情が渦巻いて、日下は気怠い感情を持て余していた。何かに圧迫されているかのような息苦しさに、呼吸をしているはずなのに肺の中は満たされない。今にも窒息しそうな毎日だ。

 体育館と校舎をつなぐ渡り廊下を横切り、校庭側に出る。最終下校時刻間近の校庭には、運動部員が用具の片づけを始めている。ふと視線を動かすと、篠原が花壇のそばをうろついていた。

 なぜ、まだ篠原が学校に――?

 悩み事に深く関連する人物との遭遇に、日下は内心ぎょっとした。しかし、先程から地面を見回し、何かを探している風の篠原の様子が気になった。

「何してんだ?」

 日下が声をかけると、篠原は穏やかな表情をして微笑んだ。清々しい爽やかな笑顔だ。たった今見てきた血生臭い光景とは無関係な顔に、日下は辟易とした。

「日下くん、まだ帰ってなかったんだね」

 たった今、お前を拉致ろうとしたやつがボコボコにされるのを見てたからな。

 内心嫌味がましく呟きながら、言い訳を探す。いつも悠真たちと行動を共にしている印象が強いから、日下単体で学校に残っているのは珍しく思われたはずだ。

「ちょっと、進路のことで担任と相談があってな」

「日下くんの進路先って、新島くんと同じ所?」

「そ。あんまり放課後遊んでると後悔するぞって脅されてきた」

「日下くんなら大丈夫だと思うけど?」

 篠原は、可笑しそうにクスクス笑った。

「で、お前はこの時間まで何してたんだよ。なんか探し物?」

 日下が尋ねると、篠原は頬を掻きながら言いにくそうに苦笑する。

「キーホルダーを捨てられちゃった子がいて、探してあげてたんだ。窓の外に投げられたって言ってたから、多分この辺だと思うんだけど」

「たかがキーホルダーのために残ってんのかよ。肝心のそいつは、どこへ行ったんだ?」

「大切なキーホルダーなんだって。途中までは一緒に探していたんだけど、塾の時間が迫っていたから帰らせたよ。俺が探しておくからって」

 呆れて言葉が出ないとはこのことだ。篠原(こいつ)は、他人の失くし物のためにずっとひとりで探していたらしい。なぜそんなことを無関係な篠原がやっているのか全く理解できない。

「お前ってマジで馬鹿? そんなの、誰かに捨てられてるかもじゃん。そんだけ探しても見つからないってことはさ」

 天才と馬鹿は紙一重と聞くが、篠原は人の良すぎる馬鹿らしい。篠原は困ったように笑っただけで何も言わなかった。

「そのキーホルダーって、どんなやつ?」

「白いウサギのキーホルダー。金色の鈴が付いてる」

「ふーん」

 そのまま立ち去るのも気が引けて、結局一緒に探す羽目になった。たかがキーホルダーひとつのために、これだけ頑張って探しても見つからない。植込みの中に入って探してみたが、それでも見つからなかった。排水溝に落ちたか、本当に誰かに拾われてゴミ捨て場に捨てられたんじゃないかと邪推する。

 もう諦めてもいいだろうに、何も言わずに篠原の物好きに付き合っている自分も実は相当のお人好しなのかもしれない。

 最終下校時刻のチャイムが鳴った。校庭はすでに人の姿がない。

 いい加減もう諦めようと、日下は顔を上げた。

「あ、あった」

 篠原は、白いウサギのキーホルダーを日下に見えるようにかざした。

「良く見つけたな。どこにあった?」

「植込みの中を探してたら見つけたよ」

 そこは先程日下が探した場所だったが、見逃していたのだろうか。日下はこれでやっと帰れるとほっとした。

「じゃ、もう帰ろうぜ。早く帰らないと暗くなるし」