夜9時過ぎ頃、栄至駅前の商店街にあるサカイ塾の扉が開いた。
 日下英明(くさかひであき)は向かいのガードレールに腰かけて、同年代の塾生の中から見知った顔が出てくるのを待った。ぬるく湿った空気を肌に感じながら、内心何で俺がと毒づく。悠真と遊んできた帰りに「どうせほっつき歩いてるんだったら迎えに行ってやれ」と、小学生からの馴染という理由だけで息子を良いように駆り出す自分の母親を呪った。

「あっ、(ひで)いた!」

 ようやく、待ち人が来た。柔らかい毛質の髪が歩くたびに頬の横でふわふわ跳ねる。大きなくりくりした瞳を輝かせて、澤田加奈《さわだかな》は日下に向かって手を振った。

「ごめんね、遅くなって」

「別に。じゃーもう帰るぞ」

 ぶっきらぼうに言って歩き出すと、隣を付いてくる加奈の気配を感じる。迎えに行くのは面倒だが、正直、加奈と歩くのは悪くはなかった。
 親に命令されると反抗したくなる思春期の複雑な心境を抱えながら、本当は夜道を加奈一人で帰らせるのは不安だった。来たく無かったわけではない。加奈の親が迎えに来られない事情があれば、代わりに行く気はあったのだ。ただ、良いようにこき使われるのが納得いかないだけで。

「英、今日も悠真と遊んでたでしょ。そろそろ勉強した方がいいんじゃない?」

 でたでた、加奈のお節介。日下は心の中で溜息をついた。昔から加奈は、日下にだけはやたら口うるさい。まるで母親が2人いるみたいだ。

「うるせぇな。お前には関係ねぇだろ」

「関係ないって、心配してあげてんじゃん。悠真とあんたじゃ頭のデキが全然違うんだから、勉強しとかないと高校行けないよ?」

 あーうるせー。やっぱ来なきゃよかったかも。

 日下はうんざりして空を仰いだ。紺鼠(こんねず)色の空がさらに気持ちを重くさせる。3年になってから、周囲の人間の口から出る言葉は受験、受験とそればかりだ。
 悠真ほどではないが、日下だって地頭は悪くないので勉強ができないわけでは無い。加奈に心配されるほどバカではないのだ。

「余計な世話だって言ってんだろ。この前のテストだって、俺の方がよかったじゃん」

「た、たかが5点差でしょ!? 出来としては全然変わんないって!」

「いいや、5点はデカイね。勉強してない俺に負けてるようじゃ、試験だって危ないんじゃねぇの?」

 言ってやったとニヤついていると、無言でわき腹にパンチを入れてきた。地味に痛い。すっかり機嫌を損ねた加奈の横顔を盗み見る。さすがに言い過ぎたかと、気まずくなった。

「……明日も学校だね」

「あぁ。なんで?」

 やっと加奈が口を開いたと思ったら、さっきまで話していたのと全く関係のない話題に、日下は拍子抜けした。

「……だってさぁ」

「なんだよ」

 言いよどむ加奈に、日下は顔をしかめる。加奈は少し俯き加減に歩きながら、話を続けた。

「いや……なんかさ。最近うちのクラスの空気重いじゃん」

 日下には、何と答えたら良いかわからなかった。気まずい空気を持て余して、無言で歩く。すると、再び加奈が口を開いた。

「安藤さんの事、知ってる?」

「いや?」

「この前ね、安藤さんが高木さんたちに囲まれてるの、見ちゃったんだよね」

 言いにくそうに声を落とす。足取りも徐々に重たくなっていく。日下は何も言わずに、加奈の歩調に合わせて歩いた。

「高木さん、安藤さんが悠真に庇ってもらった事、すごく根に持ってたみたい。“ブスの癖に期待すんな”みたいなこと言ってて」

「あぁ……」

 やっぱりそうなったか。日下は呻いた。篠原だって、女子同士のいやがらせへの対応には慎重だった。高木は悠真に憧れていたし、その悠真にあんな風に庇われれば、安藤の立場が悪化するのだって目に見えている。余計に篠原は安藤を庇いにくくなり、このままでは安藤は孤立する一方だろう。

 加奈は大きく溜息を吐いた。

「せっかく今年は篠原くんと同じクラスになれたのに。なんだか気が重いなぁ」

「また篠原かよ」

 口調に棘が含んだのを自覚する。内心焦りつつも、日下は続けた。

「あんなののどこが良いんだよ。あいつ、遊びに誘ってもノリ悪ぃし、いつも一人で本読んでて、何考えてんのかわかんねぇじゃん」

 加奈に悟られないように、あえて軽い口調で篠原を貶す。加奈は、日下の言い方にムッとした。

「だから良いんじゃん。あんたら他の男子みたいに馬鹿やったりしなくて大人だし、優しいし。ミステリアスで気になる感じじゃん?」

「なにが、ミステリアスで気になるだよ。エロいことしか考えてねぇに決まってんだろ。あいつが読んでる本だって、実はエロ本だったりしてな」