校庭を走り込む野球部員たちの掛け声。吹奏楽部の演奏が、遠くに響く。放課後の職員室には数名の教師が残り、課題の採点や、保護者からの電話対応をしている。
 2年2組の担任である増田(ますだ)も、翌日の授業準備をしながら、ある生徒の到着を待っていた。

 夏休み明けに突然やって来た転校生の存在は、他の教師陣の間でも話題になっていた。時期的にも中途半端で、あまりにも唐突だったその転校生は、聞けば家庭環境も複雑なようである。なんでも、叔父が面倒を見ているそうだ。明らかに複雑な事情を抱えていることは察しがつく。そしてそのような家庭の子供が真っ当に育つはずがなく、どこかしら性格に歪みが生じるのは、教職を続けていればわかることだった。

 ――ただでさえ、うちのクラスには津田成海という問題児を抱えているのに――。

 しかし、篠原咲乃という生徒は、増田が想像していたのとは全く違っていた。彼は理想的で、模範的な生徒だった。転入時期のせいもあり、クラスに馴染むのも時間がかかるだろうと思われたが、あっという間に馴染んでしまった。
 協調性があり友人関係は良好。学業も真面目にこなし、提出物が遅れたことはない。遅刻欠席等は一切なく、成績は極めて優秀。勉学だけでなく、体育や音楽などの実技科目にも不足がない。性格は穏やかで柔軟。非常に理知的で感情面でのコントロールにも長けている。同級生と意見が合わないことがあっても、決して衝突せず相手の意見を尊重することができる。品行方正で教師などの大人への反発心がなく、聞き分けが良く素直。どの面をとっても篠原咲乃という生徒は理想と言える生徒だった。どの教師の口からも、咲乃を褒める言葉ばかり上がる。

 篠原咲乃は増田にとっての誇りだった。不登校の生徒を抱え全く改善の兆しの無い中で、篠原咲乃という優等生の転入は、まるで闇夜に浮かぶ明星だったのだ。


 職員室のドアが開いて、待っていた生徒が入ってきた。当番制で回していた、津田の家へ連絡物を届けるという役は、咲乃の好意ですべて引き受けてくれるようになった。転入してから咲乃の係だけが決まっていなかったので丁度良かった。

 増田はいつものように、用意しておいた茶封筒を手渡した。

「今日もすまないな。よろしく頼んだぞ」

 と言っても、今までプリントを届けて何か進展があったことは一度もない。定期的に家まで訪問しても、津田成海は一切応じなかった。わざわざプリントを生徒に家まで届かせることで、生徒同士の交流を……と思っていたのだが、それすら上手く行っているようには思えない。正直、津田成海がここまで固く心を閉ざしている以上は、復学の見込みはないように思えた。

「わかりました」

 咲乃は短く返事をして、封筒を受け取った。

「あの、先生。津田さんのことでご相談したいことがあるんですが、よろしいですか?」

 珍しくそう言った咲乃に、増田は驚いて目を大きくした。

「津田のこと? どうした」

 何か困ったことでもあったのかと心配していると、咲乃の口から意外な言葉が出た。

「実は最近、津田さんの勉強を見ているのですが」

「篠原が、津田に勉強を!?」

 今まで頼んできた生徒で、わざわざ彼女に関わろうとする生徒は一人もいなかった。みんな、一度もクラスに顔を出さないクラスメイトのことを不気味がっていたからだ。まさか、咲乃が津田成海と関わっていたとは思っていなかった。
 
「そうか……。いや……知らなかったな。篠原がそこまでしてくれているとは……。津田は勉強嫌いだから大変だっただろう?」

「そうでもないですよ。たしかに、津田さんは勉強には苦手意識を持っていたようでしたが、最近は少しずつやってくれています。今は、一年生で学ぶ範囲を教えています」

「そうか! よくやったぞ、篠原!」

 増田は、咲乃の自主的な行動に心から感心した。やはり、咲乃に頼んだのは正解だったようだ。

「それで先生にお願いなのですが、津田さんにテストを個別で受けさせてあげたいと思っているんです。お時間をいただけませんか?」

「津田にテストをか?」

「はい。努力の成果が見えれば、津田さんも自信につながると思うんです」

 増田は、首をひねって考えた。