ここは、桜花咲学園(おうかさきがくえん)。政治家や有名人の血縁者、大企業の御曹司や御令嬢など、品性、家柄、明晰な頭脳を併せ持つ生徒のみが在籍する、由緒正しい名門私立校。

 わたしはこの春、特待生としてこの学園の高等科に入学した。生まれも育ちもド庶民のわたしは、まだこの学園に馴染めていない。入学して1週間経ったのに友達も出来ないし、今もこの広大な敷地に迷ってしまっている。

「どうしよう、あと5分しかない……。とにかく急がなきゃ……!」

 先を急ぐあまり、廊下の角を曲がったところで人にぶつかった。身体(からだ)が後ろに倒れる。突然のことに驚いて、わたしは咄嗟に目を瞑った。

『危なかった、大丈夫?』

 優しく腰を支えられる感覚に、聞き覚えのある声。目を開くと、そこにいたのは――。

「し、梓月(しげつ)先輩!?」

 切れ長の黒い目が、わたしの顔を覗き込んでいた。

『急に飛び出したら危ないですよ。……見ない顔ですが、1年生?』

 先輩に腰を支えられた状態にドキドキしながら、わたしは先輩を見上げた。

「は、はいっ、1年生です。ごめんなさい、まだ周りの事が分かってなくて……」

『そうでしたか。クラスはどこ? 私が案内します』

「え……いいんですか!? でも、先輩も授業があるんじゃ……」

『私はこの学校の生徒会長ですから。困っている生徒がいれば助けるのが仕事です』

 生徒会長は全校生徒の模範でいなければいけない立場だ。わたしのせいで先輩に迷惑をかけてしまう。それがすごく申し訳なくて、いつまでも学校に馴染めない自分に悲しくなってしまった。

 先輩は呆れたように溜息をつくと、わたしの目尻に溜まった涙を指ですくい取った。

『泣かないで。可愛いお顔が台無しです』

「うきゃあ――、梓月先輩かっこいーーーー!!」

 漫画の中の梓月(しげつ)先輩が素敵すぎて、思わず声が出てしまった。もう何度も読み返したシーンなのにドキドキする。
 梓月先輩、現実世界に出てこないかなぁ。こんなキラキラしい人を、遠くから眺めて癒されたいよう……。

「津田《つだ》さん」

 改めて、漫画のなかにいる梓月先輩の端正なお顔を、隅々まで堪能する。
 つややかな黒髪に、知的さと冷たさを孕んだ切れ長の目……。薄い唇は紅を差したように血色が良くて、女性かと見紛うほどに中性的で……だけど、やっぱり男性なんだと意識させられる、喉ぼとけや首筋、ほどよく筋肉のついた細身の体型……。すごく美しくて、そして色気のある容姿だ。こんな人に見つめられたら、きっと心臓が止まってしまう。

「津田さん、聞いてる?」

 もし、梓月先輩みたいな美少年が現実(リアル)にいても、きっと上手く喋れないだろうな。そもそも、目も合わせられないわ。お近づきになりたいどころか、近づかないでほしいって思っちゃう。視界に入った時点で恥ずかしすぎて死ぬと思うし。
 やっぱり、美少年は遠目から見るに限る。わたしみたいな根暗コミュ障ブタが、梓月先輩みたいな人と関わったところで、絶対にろくなことにならないもん。モブはモブらしく、空気となって見守るべきだ。

「津田さん、聞こえているよね?」

 がしっと肩を掴まれた。さすがに、これ以上は知らんぷりできない。いやだ、現実に戻りたくない。

 わたしの首が、油の切れた金属の如くギギギと音を立てながら回る。同い年の少年が満面の笑みを浮かべて、わたしの肩を掴んでいた。

「趣味に没頭するのもいいけれど――」

 やけにきれいな顔が、わたしの目の前に迫った。

「いい加減、勉強しようか?」

「……は、はい」

 ピンク色に彩られた世界を全力でかなぐり捨てたときの素早さだけは、誰か褒めてくれてもいいと思う。