日給10万の結婚

 落ち着け、落ち着くんだ。人通りも多い。大声を出すかスマホで警察を呼ぼう。いくら私でも、男に腕力で勝てるわけがない。ああ、でも右手は掴まれてしまっている、スマホは取り出す余裕がない。じゃあ早く大声を出して助けを……

 そう考えている間はほんの一、二秒だったと思う。だがその一瞬の隙を見て、和人が突然私に口づけた。生ぬるい感触に吐き気すら覚えつつ、私は瞬時に持っていた鞄で和人の頭を思いきり殴った。結構強く当たったようで、和人が私から手を離す。私は無我夢中で奴を思いきり突き飛ばした。彼はよろめいて地面に尻をつく。

 私は左手の甲で強く唇を拭いた。リップの色が肌に移る。だがそんなことを気にしている余裕もなく、私は和人を睨みつけた。そして、床に転がっているやつの胸倉を掴み上げ、低い声で言った。

「誰かに頼まれてるの?」

「…………え」

「そうだね? あんたのやってることはめちゃくちゃだ。和人はプライドが高いし、今更自分が昔振った女にまとわりつくなんてらしくないんだよ。しかも拒否られてるのに無理やりだなんて」

 沸騰しそうな自分の頭は、案外冷静に回っていた。自分の考えを淡々と述べる。

 そう、そうだ、何かがおかしい。なんで今更私にまとわりつく必要がある。この男には守ってあげたい可愛い彼女だっている。私は結婚してる。別れるとき、私は未練なんて感じさせず別れた。なのに今更接触してくる意味が分からない。それに、何とか必死に事実関係を作ろうとしているのがバレバレだ。

 彼は何も言わなかったが、わずかに口角をあげた。いら立ちがさらに増し、私は舌打ちする。

「大体想像つくからいい。三秒以内に去らないと大声出す」

 奴を離す。和人は襟を正すと、そのまま立ち上がる。そして私に一言だけ言った。

「金持ちと結婚するのも大変だな。お前は一生幸せになんてなれないのかもな」

 それだけ言うと、彼はさっさと歩いて行ってしまった。その背中を睨みつけながら、周りから視線を集めてしまっていることを思い出す。注目されるなんてごめんだと、すぐにその場から立ち去った。

 ヒールの音を響かせながら、とにかく足を進める。あの和人の言い方からして、やはり間違いなくあいつは自分の意思であんなことをしたわけではないのだろう。この前たまたま再会したところを、見られたか人づてに聞いたかして、和人の存在を知ったのかもしれない。

 持っていた鞄からハンカチを取り出し、再度唇を強く拭いた。痛みを覚えるほどだった。付き合ってた頃はキスぐらいしていたというのに、今はこんなにも嫌悪感で満ちてしまう。玲とのキスを上書きされたようで最悪だった。まあ、玲とだって憧れるほどのいいシーンではなかったのだけれど。

「それより、和人のあの行動、一体誰がどういう意図で仕組んだんだろう」

 私が元カレと関係を持てばいいと思って誘わせたのだろうか? それだけなら、計画として浅い気がする。私が彼に未練などないってことは明白だと思うし、断ってしまえばそれで終わりだと思うのだが。

 じゃあ一体、相手は何を思って……。

 考えながら素早く足を動かしている時だった。背後からやってきた車が、突然私の横で停車したのだ。黒い高級車だった。

 嫌な予感がして、足を止める。