「次、ファルセット」

 そう言うとようやく沢里の本来の歌声が練習室に響く。柔らかなバリトンから高音域のファルセット。幼い頃から音楽に慣れ親しんでいるのが分かる喉の使い方。

 相性は悪くない。いやむしろ、いい。

 どくりどくりと脈拍が上がる。

 人と一緒に歌うのは中学生の時以来だった。


 その瞬間、一人で歌うと決めたきっかけとなった、あの悪夢が脳裏に蘇る。


 嘆く声、流れる涙。
 
 責めるような目、冷たい言葉。


 ピアノを弾く指が止まる。同時に重なる声も消えた。

 かすかに指が震え、呼吸が浅くなっていることに気付く。

 もしかしたらもう大丈夫かもしれないなんて希望を抱くべきではなかった。

 ――ああ、私はまだ人と歌えない。

「やった……」

 ぐるぐると巡るビジョンを裂いたのは、横から聞こえた小さな声だった。

 ふと顔を上げると、沢里が喜びと驚きが混ざったような奇妙な表情でこちらを見つめている。