私の父は内科医だった。
元々東京の総合病院で勤務していたのだが、私の持病である喘息が酷くなり転地療養が必要となって離島の診療所にやって来た。
私自身に東京にいた時の記憶はないけれど、島に来て嘘のように元気になったのだと母から聞かされた。

そんな父も、私が小学5年生の時胃がんが見つかり亡くなった。
若いからこそ進行が速く、あっという間の出来事だった。

「無理することは無いぞ、碧の生きたいようにすればいい」
それは、病床にいた父からの最後の言葉。
医者になることの大変さも、離島の医師として生きることの苦悩と重責もすべてを知っていたからのものだったと思う。
それでも私にとっての父は憧れの存在で、進路に迷うことはなかった。


「碧ちゃんの帰りをみんなで待っているからな」
高校卒業と同時に大阪の医大に進んだ私が島を出る時には、多くの島民が見送りに来てくれた。
それは、医大を卒業し経験を積んでまた島の診療所に戻って来てくれると信じてのことだったのだろう。
もちろん、私も同じ思いで島を後にした。