「えっ?」
 ぎょっとしたような令嬢の顔を見てしまった俺――和泉敬斗は、慌てて視線を夜景へ流した。何か言われる前に、そそくさと言葉を並べていく。
「ぶっちゃけ、鴨重ってもっとキツいやつかと思ってたんだ」
「へ?」
「お前さ、あんま学校で男と会話しねぇじゃん? オトーサマから止められてンのかなーとか、話しかけるだけでマジの黒服飛んでくンのかなとか。そんな風に思ってた」
「まさか。違うよ、ありえないでしょ」
 声を裏声した鴨重は、目を見開いて弁解を始める。
「私ね、クラスに限ったことじゃないけど、男の子と話すの、その、恥ずかしいの」
「は? 恥ずかしい?」
「ん。いつも緊張しちゃって、顔まともに見られないだけっていうか」
「マジ?」
「フフッ。マジ、マジ」
 なんだ、そうだったのか。確かにずっと目が合わないなと思って腹立ってたけど、違ったのか。
 下々のモンには顔も向けねぇとか、お高くとまってるとか、そういうことじゃあない。鴨重は、単に男馴れしてないっていう、そういうやつだったんだな。
「あ、俺――」
 俺の方こそ、飽き飽きしたり適当な態度になって悪かった――そうやってちゃんと言わなきゃ。と、思ったんだが。
「和泉くんと今こうやって話してるのだって、実は、スんゴく緊張してるんだよ」
 鴨重の方が、俺よりも言葉を挟むのが早かった。口がパクパクと着地点を見失って、鴨重の言葉に耳を傾けて。
「もしかしたら、パーティーでの挨拶の方が緊張しないくらいかも」
「さっき『圧し潰されそう』とか言ってたくせに?」
「そっ、それはだって、圧の種類が違うもん!」
「ふーん?」
 ようやく視線が合った鴨重は、しかしすぐに慌てたように夜景を向いてしまった。
 あ。耳まで赤い。チークかと思ってたけど、もしかして、照れてる赤みか? コイツ、赤面症? へぇー、いじりがいありそう。
「話してみねぇと、案外わかんねーもんだな」
 赤い横顔へ、なるべく優しく静かに投げかける。パタリとマスカラをまぶしたまつ毛を持ち上げて、甘くこっちを向いてきて。
「ぜっ、全部わかったとか、思わないでよねっ」
「ハァ?」
「一時間かそこらでわかるような、た、単純な私じゃ、ないから」
「フフッ! へぇ?」
 ツンデレかよ、なんつって。ジロジロ、手すりに頬杖をついて鴨重を眺める俺は、意地悪く口角を上げる。
「ンじゃ当ててやろーか。今オジョーサマが考えてること」
「ええっ?!」
 そうして化粧付いた目元でこっちを向いた鴨重に、突然女子を感じてしまって、一瞬ドキリ。
 い、いや、こんなのジャブにもなんねーし。さて、観察観察。
 フイ、とまた逸らされた顔。グラスにほとんど残っていない飲み物を煽る仕草。中の液体を追っていたら、淡い桃色に着色された唇に視線が止まって、うっかり釘付けになって。
 タン、と手すりに置かれた脚付きグラスの音で我に返る。危ね。
 潮気を含んだ夜風に舞う髪が、ファンデーションでコーティングされた頬にまとわりついた。左手先でそれを耳にかけて、そうしたらシャランとエメラルドのイヤリングが揺れる。
 瞬間、今まで知らなかった鴨重紗良(クラスの女子)の横顔が現れたような。大人びた横顔に、ズキリ、ドキリ。思わず生唾ゴクリ。
「わ、わかった?」
「へ?!」
 ヤベ、なんでかわかんねぇけど見惚(みと)れてたっぽい。あ、きっとあれだ、化粧してたり、制服じゃないからだ、うん。
 で。結局なにも考えてなかった上に読み取れなかったわけですが。俺のバカ。
「ね? やっぱりわかんなかった。ハァイ、和泉くんの負けー」
「なっ、負けとか」
「フフッ!」
 う。あ、あれ?
「正解は、『また和泉くんにSPやってもらえたらなぁ』でした!」
「…………」
 笑うと、かわいい、かもしんない。
「え?」
「あ」
 お互いに、慌てて口元をおさえて、表情が歪んで。
 え? 俺、なに言われた?
 マタ、オレニ、SPヤッテ、モラエタラナ?
 何だそれ、新手の呪文かなにかか? いやいやバカ野郎、言葉のとおりだろうが。
 つまり、つまり?
 つ、ま、り?!
「ウ……ソ。ウソウソ、違うの、ごめんなさいっ」
 妙な沈黙に、慌て出す鴨重。目の前の鴨重がドレスのビビッドピンク寄りもずっと真っ赤になって、俯いてしまっている。
 言うはずじゃなかったのか、うん。なるほど、残念ガール。でもかわいいところだと俺は思……あぁ、いやいや。
「なっ、なーに言っちゃってんだろうね、私! アハ、ごめ――」
 突然。鴨重が右手に持っていたグラスが落下。ガシャンっ、とデッキの木床へグラス片がキラキラと砕け散る。
「キャッ」
 落ちた側の脚を避ける鴨重。しかし手すりの金具にぶつかった破片のいくつかがまさかの角度で跳ね返ってきて、鴨重に刺さりそうになる。
「危ねっ」
 無意識に近いほど咄嗟に手を伸ばす。怪我なんかさせるわけにはいかない。今日の俺の仕事は、鴨重の護衛だから。
「大丈夫か、怪我ねぇ?」
 跳ね返ったグラス片は、なんとか鴨重から避けさせることができた。ふー、マジで危ねぇよ、ガラスは。
「い、和泉くんこそ大丈夫?! 素手なのに、ガラスの破片っ、弾いて……」
「ん?」
 まぁ確かに手は伸ばした。けど、『それで何をしたのか』はよく覚えていない。で、なぜか俺、両掌をグーにしてる。開けてみれば、ウワオ、鴨重に刺さりそうになってたガラスの破片がこんなところにたくさんぶっ刺さってる。
「あーヤベ、俺すぐグローブしてると思って駄目だな。忘れてた」
 よく見れば、手の甲側にもいくつか刺さってる。じんわり血が滲んできたけど、大した痛みは無い。今のところは。護るために必死だと痛くないのかもしれないな。アドレナリンのあれとかで。
「別に痛くねぇし、大丈夫だ。お前は? マジで怪我ないか?」
「ないよ、ない。敬斗くんが全部(かば)ってくれたからっ」
「な、なに泣きそうになってんだよ、バカ」
「バカって何よっ! 怪我させて申し訳なく思わない方がどうかしてるよ!」
 言いながら、鴨重は肩に掛けていた小さい鞄から何かを取り出して、俺の両掌を自分に引き寄せた。げ、血だらけになんかさせられるかよ!
「お、おいっ」
 と、思ったんだが。
 掌を上に返されて、その場にしゃがまされる。鴨重は自分の膝の上にタオルハンカチを広げ置き、俺の掌に突き刺さった小さなグラス片をひとつひとつ丁寧に取り除いていった。グラス片は、どんどんタオルハンカチに乗せられていく。
「ばっ、バカ。マジで怪我すんぞ」
「私のせいで手にガラス刺さってるのに、そのままにできないっ」
 いやいや、こんなことされてんじゃあ(かば)った意味ねぇじゃん。
 だが、案外鴨重は器用を発揮し、グラス片を集めきってしまった。掌も手の甲もすっかり取り除かれ、残っているのは点々とした小さな小さな切り傷のみ。ちょっと見た目には痛々しいけど、なかなかの勲章だろう。こういう傷、親父なら好きなやつだ。
 集めたガラス片が乗ったタオルハンカチを丁寧に畳んで鞄へしまい、次に取り出したのは、淡い桃色のシルクハンカチ。
「動かないでよ?」
 鴨重は言いながら、そのシルクハンカチを縦にふたつに裂いた。ピイイと繊維の裂ける音が、俺の背徳感を撫で上げる。
「おい何して――」
「いいのっ」
 裂いたシルクハンカチは、くるくると傷口に巻かれていく。薄桃色のテーピングみたいになって、手の甲側でキュンと結ばれた。
「ごめんね、急遽出来ることってこんなことしかなくて」
「いや、むしろサンキュ。あと、『申し訳ございませんでした、お嬢様』」
「ううん」
 仕上がりの良さ、適度な巻き加減。手当ての仕方が上手いし、マジで器用だ。車から降りるときに転びそうになってた奴だとは思えない。
 巻かれたそれを眺めていると、胸の奥がツキンツキンと痛む。手なんかよりこっちの方が、なんでか知らないけど無性に痛くて。
「『お嬢様』はドジなんじゃなくて、緊張してヘマするタイプなん『ですね』」
 クス、と笑んでお嬢様を眺める。
「ふ、ふんーだ! 『失礼いたしました』っ」
 夜景に照らされてあらわになる、寄った眉間、膨らんだ頬。みるみる赤く染まって、夜景に視線が移る。その潤んだ瞳の中に夜景の光が反射して、横顔がやっぱり、無性に麗しく見えて。
 ソワソワな背筋。グルングルン回る脳内の赤色灯。これはヤバい、急速に意識してしまうかもしれない。
 ふふ、と漏らしたお嬢様はゆっくりと立ち上がって、深呼吸をひとつ。
「あの、和泉く……じゃなくて、敬斗くん」
「え……あ『はい、お嬢様』」
「次の機会があったら、私のSP、またやってもらえませんか」
 そっと立ち上がる俺。淡く笑んだお嬢様はわずかに首を傾げて、とんでもなく上品だ。
「きょ、今日限りの日雇いなんだけど、俺」
 あぁ、照れが強くてつい素直になれなかった。
「お代はその、私が出すしっ、だから、えっと」
 う、ちょっとシュンとされてる。そうじゃなくて、っつーこと言わねぇと。
「ばっ、バーカ。いいよそんなの」
 ぐん、と身を屈めて、顔を覗いてやる。息を呑んでしゃくるようにしたお嬢様を見てたら、俺はいつの間にか笑っていて。
「『本当に(わたくし)めでよろしいですか。お嬢様?』」
 なぜか呆気に取られていたお嬢様。意味を理解したようで、二拍遅れてパアと表情を明るくして。
「私は、『敬斗くんがいいんです』!」