「この辺まで抜けてくれば、もう平気だろ」
 そう言って、私――鴨重紗良を抱えたまま枝依アクアリウムを駆け抜けた敬斗くんは、物陰になるような水槽の一角でやっと立ち止まった。
 よく考えたら私、振り落とされないようにとか人さまの邪魔にならないようにってことに集中しすぎて、敬斗くんの首にガッツリ腕回してるんですけど。ヒャアア、強い! そして近い! 推しの首筋に自分の鼻がゼロ距離とか匂い供給過多でございましてよ!
 沸き上がるいろんな感情でぷるぷる震えていたらしく、敬斗くんが小さく「どした?」と訊いてくる。
「あああのあ、あの、そそそろそろそ、そろ、お、おお、下ろして、ほしいです」
「あぁ、はいはい」
 アッサリ。ぐっ、もうちょっと躊躇ってほし……あぁいやいや。
 薄暗がりとはいえ、真っ赤になってるに違いない顔面を見せられるわけもない。頬を覆うようにして俯きながら訊ねる。
「敬斗くんすごいね? よく私を抱えたまま全力疾走できるよね? えと、いつかの体育のときも、そうだったけど」
「別に普通じゃね? お前そんなに重くねーし。四六キロくらいだろ?」
「なっ、た、なんで体重わかんのよっ」
「だ、だって、持ちゃわかるし……」
「も、もー! わざわざ言わなくたっていいじゃないっ!」
「いや、でも。ここ、俺たちしかいねーから」
 くるりと見渡してみる。ほ、本当だ。開館すぐってのもあるだろうけど、周りには本当にまだ誰もいない。
 うう、体重なんてデリケートなことをまさか知られてしまうなんて思いもよらなかったけど、敬斗くんは見事みんなを撒いてくれたみたいだし、ちょっとよかった、かな? ホッとやっとひと心地がついて、くちゃくちゃになったかもしれない前髪やらスカート周りなんかをパタパタと直していく。
「あの、鴨重」
「なに?」
「えと、か、確認、なんだけど」
 なんの? とキョトンの私。
「お前さ、あの、俺のこと、その。ここ、こ、怖く、なくなった?」
「え?」
 怖くなくなった、って、なに? 何の話? 私、敬斗くんのこと怖がったことあったっけ?
「あの。もともと怖がってない、けど」
「いや違っ、だってお前、男と話すの緊張すっから俺の顔見れないとかなんとかって、船上パーティーんとき言ってたじゃんっ」
「そ、それは確かに、言ったけどっ。けけ敬斗くんの顔見れないのは、その、ききき緊張の種類が、違うと、言いますか」
 言葉に詰まって、後ずさり。けどすぐにトンと壁に背中が当たってしまって、くしくも追い詰められるかたちになってしまった。
「じゃあどういう緊張?」
 ぐぬ、奇跡的な壁ドン。質問のとおり、現在話題真っ只中の緊張によりあなたの顔が見られません!
「も、もう俺といるとき、緊張しねーでも平気? SPんときも普段のときも、俺と他のヤツとの違いって、お前にある?」
「だっ、だから私っ! もも、も、もともと敬斗くんはっ、その、『違う』から。だだだからその、一緒にいればいるほど、きき、緊張しちゃうのは、変わらないのっ!」
 言ってしまってから、これは誤解を与えないか? と自問自答。
 真っ赤の顔のまま、間近の敬斗くんを慌てて見上げる。
「違うってのは、つまりその、特、特別っ、的なやつ、で、えと」
 あ、敬斗くん、ちょっと不安そうな顔してる。
「あのね、私、けけ敬斗くんの、こと、一年生のときから、えと、推してて」
「……オシテテ?」
「だ、だからっ。あこ、憧れてた、っていう。か、かか片想いっ、を、してまして。敬斗くん、に。だだだからその、アイドル推す、みたいな感じから、始まったから。だからその、敬斗くんはずっと、ずっと私の、最推し……みたいな」
「あ、そそ、そういう意味……だ、だからお前よく『オシ』っつってたのか」
 小さくなっていく敬斗くんの声。私ももう限界、顔を両手で覆ってしまった。
「す、か、片、想いしてる人に、SPしてもらえる、とか、夢みたいで、嬉しすぎて、毎日」
 チラリと指の隙間から敬斗くんを覗く。そして。
「好きなの。どんな敬斗くんの、ことも」
 言っちゃったぁあー! 遂に言ってしまいましたよ鴨重紗良!
 はぁもうどうしよう。けど実は少し期待している節がある。なんとなーく先週の父親発破かけ同盟のお陰で敬斗くんも意識してくれているんじゃないかな? なんて思わなくもなくて。
 今まで告白するだなんて、考えたこともなかった。敬斗くんはいつだって、私の手では届かない『別世界の推し』だと思っていた。それがまさかこんなに近付けるだなんて、思ってもみなかったんだもの。
 好きだから敬斗くんがいい。だから恥ずかしくて、目を合わせられなくて、顔も赤くなるし慌てちゃう。名前だって呼んでほしいし、お見合いが嫌だと泣いちゃうこともあるの。
「俺、は……」
 ちょっと上ずった声の敬斗くん。へ、返事くる? 返事? わ、待って待って、聞きたいけど聞きたくない気もするの! 思わずギュッと目を瞑る。
「ドジで、目ェ離すと危なっかしいお前だから、俺がしっかり気ィ配んねぇとなって思ってた」
「んなっ。ど、ドジって、あのねぇ!」
「でも最近は違う。……紗良が、ずっと自然な感じで笑ってられるような危なくない場所を、俺が保ち続けたいって、思うようになってる」
 ほぇ? あれ?
「さ……名、名まっ」
 びっくりしているのも束の間、不安そうだった敬斗くんの表情はゆっくりと優しい笑顔に変わっていった。ちょっと照れくさそうなはにかみがみえる、カッコつけてるときの笑顔。
 観察していたら、突然ギュッと抱き寄せられてしまった。びっくりしすぎて声も出ない。頭も真っ白になっていく。
「知らねーうちに、す、好きになってた。紗良のこと」
 囁かれる、そんな私に都合のいいセリフ。あああ、左耳からどろどろに溶けそう。涙腺もぐずぐずしてきちゃう。
「だから、お前も気持ち、もしも同じなら、こ、『公私ともに、私とお付き合い願えますか』」
 もう無理、限界! 糖分の過剰摂取!
 ばりっと身体を剥がしてスンと鼻を啜って、敬斗くんを真顔気味に見つめる。
「ホント?」
「ほ、ホントだから言ってんのっ」
「わた、私といたら、家のいろんなこともついてくるよ?」
「わーってる。でも、『全部紗良お嬢様と二人で越えていけたら、それはそれでよいかと』」
「敬斗くん……」
「めんどくせーことも、いろんな大変なことも、今まで以上に協力して越えてけばいいよな、って思って。『かなり熟考いたしました』。SPしてるときも学校にいるときも、紗良のこと気にしてるのって、俺もその、特別、だから」
 視線を逸らして、手の甲で顔の下半分を覆った敬斗くん。はい、感情の防波堤が決壊しました。「ふえ、嬉しい」と涙と一緒に漏れ出たひと言を自分で聞いて、もっと泣いてしまう。
 敬斗くんはオロオロと、泣いている私を気にかけていた。申し訳がたたなくて、でも嬉しさのあまり涙が止まらなくて、ひぐひぐしながらなんとか言葉を絞り出した声に乗せる。
「ずっと……ずっと傍に、『いてくれるのですか?』」
 涙でぐしゃぐしゃになりつつある顔と声で訊き直すと、敬斗くんは私をまた文字どおり持ち上げた。膝から抱えるようにして私を高く上げるものだから小さくキャッとか言っちゃったけど、慌てて敬斗くんの肩に手を置いて支えにする。想像してないよ、こんなの!
「『もちろんです、お嬢様』」
 赤くなっている、敬斗くんの頬と耳。照れていても、それでもなお私をまっすぐ見つめてくる姿勢や気持ち。
「いつまたすっ転んだり、グラス割ったり、ボールぶつけたりスカート捲れたりするかわかんねーお前を、ぼけーっと放っとけねーだろ」
「も、もうっ! そんな理由?!」
「て、照れるんだよ。自分から気持ち伝えるなんてしたことねーもん」
 好きな相手に抱き上げられて、見上げられて、こんなことまで言われて。それできゅんきゅんしないひとがいたら教えてほしい。私、いつの間にこんなに敬斗くんに想ってもらえていたんだろう!
「『お嬢様がどんなドジをしても、私がいつなんどきもお支えいたします』」
 そっと床に降ろされる。ヒールで足を挫かないかきちんと確認してくれるのは、敬斗くんがひとに気遣いができるひとだから。
「だから、これからはずっと隣にいる。お嬢様のときも、紗良のときも」
「嬉しい……ありがとう、敬斗くん」
 感極まって、私は敬斗くんへ飛びつくように、ぎゅっと首もとに腕をかけた。
「私も、どんなときも、どんなことでも、敬斗くんと一緒にのり越えていきたいです」




                                  fin.