決戦の日曜日、一〇時三分。枝依東区『枝依アクアリウム』エントランスゲート前に、俺――和泉敬斗は立っている。そして、たまたま傍にあったガラスに映る自分の全身をいま一度チェックして、小さく納得していたのだ。

 まだ三回しか着てない、ターコイズ色のVネックTシャツ。
 裾を折り返すデザインの、八分丈の黒デニムパンツ。
 そして、下ろしたて新品の黒いスニーカー。

「うん、控えめに言ってなかなかだろ」
 我ながら、シンプルな割にきちんと決まっている格好に調ったと思う。アイツがどんな私服だろうと、変に浮かないようにはなっているはず。だから自分の格好に関してはもう平気、と区切りをつける。
「問題は――」
 漏れ出た言葉を切ってジロリと視線を周囲へ流していく。

 つるりとしたイルカのオブジェの脇に三人。あれは友人たち(ABCども)だ。
 向こうのタクシーの影に隠れてる二人。あれは令嬢友人(DとE)か?
 他にもなんだか、あっちの陰やらこっちの隙間に人の気配がするんだよなぁ。

 あーもう、それぞれで余計なこと企みがって。なんでマジにみんな集まってンだよ、野次馬どもめ。暇なのか? 面白がってんじゃあねーぞ、チクショウ。
「……ったく」
 最初は映画に行こうと思ったんだ。
 だからいろいろ調べてたんだが、いつの間にか親父に知られてしまって、映画は取り止めることにした。だって親父に知られると十中八九鴨重社長に筒抜けになる。それは避けたいと思っていたのに、結果的にこれだ。どこから情報が漏れたんだか。
 今回は誰にも邪魔に入られたくはない。どうしても二人だけで決着を着けたいことだから。
 尾藤(友人B)の後輩が、リニューアルした枝依アクアリウムが良かったって言っていたらしい話を火曜に聞いて「これだ」と思った。すぐに二人分の入館チケットをネットで購入。しかし、どんなタイミングでどんなふうに誘ったらいいんだと散々頭を悩ませていた。これだから、頭脳戦にはとことん向いていない。
 水曜の放課後だって、アイツを護衛すると言う名目で二人だけで帰ったが、結局モダモダやっているうちにその日は誘えず。木曜の休み時間にようやく一人になったアイツを追いかけて、でも照れが出てしまったことで素直に言えず。散々かける言葉を間違えて、子どもくさい上に回りくどくなってしまった。そして最終的に、クラスのほぼ全員の目の前で誘ってしまうという御大層なことになってしまったわけだ。
 でもまぁ、別にいいか。アイツが喜んでくれたなら、それで。楽しみにしていると笑んだアイツに、俺の方が心底嬉しく想っていたんだから。

「ごっ、ごめんなさいっ。道っ、が混んでて!」
 ひっくり返っている、この聞き慣れた声。ビクっと全身を跳ね上げた俺は、組んでいた腕を慌ててほどいて姿勢を正した。声の主は、まぎれもなく鴨重紗良本人。

 広く浅い丸首の、白いシフォン(抜け感のある)ブラウス。
 二重のフリルで飾られているノースリーブ(袖なし)タイプの肩周りは、鴨重紗良が走る度にふわふわと揺れている。
 珊瑚色の膝上ミニフレア(裾が広がっている)スカート。おい、あんまり走るとまたぱんつが……あ、いやいや。
 緩くウェーブのかかっている長い髪は、普段どおりにハーフアップ。
 五センチヒールのエナメルパンプスが、上半身の組み合わせとマッチしていて、いい。

「お、お待たせ、しました」
「おっあ、べ、別に」
 ぐぬ。九月とはいえまだ暑さの残る気候のなか、この爽やかかつ可愛らしい組み合わせ。んん、ヤバい。好感度がだだ上がる。
「あの。お、お前の私服。新鮮で、なんかその、緊張する」
 視線を四方八方へやりながら、俺は左手の甲で口元を隠し、ボソボソと告げる。
 コイツの場合、ドレスやら着物が標準(デフォルト)になってたから。まぁ、冷静に考えたらそっちのがどうかしてるんだけれども。
「わたっ、私、も」
 外気の暑さだけじゃない赤みをその頬に帯びて、鴨重紗良も肩を縮めた。
「いっ、今更、私服初めてとか、なんか逆に、照れるよね」
 そう言って小さく笑んで、俺を見上げる。次いで、走ったことで垂れ下がった髪の毛をそっと耳へかけた、鴨重紗良。な、なんだ、コイツの、この仕種。胸がぎゅうぎゅう締め付けられるんだが。は、話を転換させて、気を紛らわすか。
「もっ、も、もっ、持ってきたか、ちゃんと? 入館、チケット」
 おい俺、なんだこのしょうもない質問は。
「もおっ、も、持ってきてる。大丈夫」
 しかし律儀にそう返してくる、鴨重紗良。しかも、揃いも揃ってなぜかそれを見せ合えば、どちらからともなくプッと笑みが(こぼ)れて。
「まぁ、行くか、そろそろ」
「ふふ、うん」
「でもその前に、言っとくことが」
 口元になんとなく笑みを残したまま、「え」のハテナで俺を見上げる鴨重紗良。正面を向いたままその右真横に並び立って、何の気なしにチケットカウンターへと足を動かす。そうしながら、会食やらパーティーのときにやる小声で、ボソボソと告げることにした。
「『お気付きですか?』」
「な、なにが?」
「マジで張られてるっぽいから、俺たち」
「は?!」
「イルカんとこと、門の向こうのタクシー乗り場。あとは植え込みの中とかにも何人か」
 気が付かれないように、歩み進みながら辺りを見回す鴨重紗良。みるみる顔が歪んで、いや待て待て、その顔はアウトだ。笑ってしまいそうになるから今はちょっとセーブしてくれ。
「嘘でしょ。あの植え込みのとこにいるの、パパの黒服の人なんだけど」
「ハーァ、結局筒抜けかよ。予定変更した意味っ」
 うう、とひたいを小突く俺。
「なに、筒抜けって?」
「俺がお前誘おうとしてたの、なんでかウチの親父にバレてて。しかも社長ンとこに情報が流れてたってこと」
 うう、と頭を抱える鴨重紗良。
「ごめんね、父がいろいろと」
「いや、むしろ俺が。すまん」
 だったら、こっちにだって考えがある。
 生唾を呑んで、腹を決めて。そっと鴨重紗良の入館チケットを預かって、空いた右手を掬い上げる。
「今日、誰にも邪魔されたくねぇの、俺」
 これは、SPとして触れているわけじゃない。言い方は悪いけど、下心を含んだ触れ方だ。
「ふぇ?」
「親とか家とか周りの目とか、全部全部関係なくした、お前と俺の二人だけで話詰めたいんだよ。自分の気持ち、ちゃんとわかりたいから」
 破裂するくらいの緊張感と、身の丈以上のカッコつけを装備して、やっとの想いで触れているに等しい。
「親同士が勧めるからとか、SPだからとか一切抜き。和泉敬斗(素の俺)鴨重紗良(素のお前)がどうしていきたいかを、ちゃんとクリアにさせてくんねぇ?」
 表情はせめて、SPのときのようにポーカーフェイスを保ちたい。でも、コイツがポカンと見上げるこの視線にズドンとやられてしまうと、そんなの保てるわけもなく。
「あ、あう、えと」
 顔面がクソ暑い。鴨重紗良も、沸騰寸前みたいな顔色だ。(いや)(おう)でもにやにやしてしまうのは、ポジティブな期待の答えがほぼ見えているからに相違(そうい)ない。
 十中八九、コイツも俺も、きっと、きっと。
 タン、とチケットカウンターへ入館チケットを提出。スタンプかなにかを押してもらったのを音だけで確認し、流れるように取り戻す。それを右手に握り締め、左手で鴨重紗良の細い右手首を掴む。
「ひゃっ」
 クンと引けば、あっさりと鴨重紗良の体勢が崩れた。それと同時にフレアスカートを腕に巻き込み、その膝ごと抱え上げ、アクアリウム内へダッシュ開始。
「走るぞ」
「ちょ! け、敬、っ」
 俺の十八番(オハコ)『連れ去り』発動。