鴨重邸(ウチ)の門扉前に白い高級セダン(クライスラー)がきちんと停まっている。メイドさんに連れられて、渋々ながらにそれに乗り込んだ私――鴨重紗良。
「はあ。気が重い……」
 車内左奥の運転席真後ろに座ってすぐ、大きく溜め息がひとつ出てしまった。だってやっぱり、あと数分後には顔を合わせることになるであろう『一日限りのSP』が、不安でたまらないんだもん。
「ねぇ、どんな人が私のSPになったか知ってる?」
「申し訳ございません。存じ上げてはおりませんが――」
 フロントガラスを向いたままの運転手さんに訊ねたけれど、やっぱり首を振られた。彼女は言葉を途中にして、半分だけ私を振り返る。
「――お嬢様と同い年くらいのボクシングに長けている青年……ということは、社長から伝え聞いております」
「ボクシングに、長けてる?」
 小さくなぞると、それを合図に妄想ワールドへトリップ。

 同じ高校生くらいの、ボクシングが強い男の子。
 身長はきっと、ヒールを履いた私よりも五センチ以上は大きかったりして、上腕の筋が浮き出てカッコよく見えたり、首筋も魅惑的に薫りそうなほど雄々しくて、見惚(みと)れちゃったり溜め息が出てしまうんだろうなぁ。顔がタイプだったりしたら、ちょっと意識して何度もチラチラ見ちゃって、パーティーどころじゃあなくなるかもしれない。
 本名を訊き合うことのない、上部だけの護衛関係。今日これからの四時間が終わったら、もう顔を合わせることのない、極めて一時的なものになるんだろうけど……なんか、そんな状況(シチュエーション)にすらキュンとしてしまうなぁ。

「はあ……」
 思わずうっとり。甘い溜め息が溶け出した。
「そんなにご心配なさらずとも大丈夫でございますよ、お嬢様」
 ハッ、違う違う! そうじゃあないの!
「えっ、べっ、別に私はっ」
「今回のSPも、きちんと社長のお墨付きでございますから」
「え? あ、あぁ」
 そっか、運転手さんは私が杞憂(きゆう)に感じているって汲んでくれたのね。運転手さんの一声に、今までふわふわさせていた桃色の妄想を、首を振って散らす。まったく我ながら、何にうつつを抜かしちゃってんのやら!
 深呼吸、深呼吸。私は鴨重家ご令嬢として向かうんだから。たかだか『こんなこと』で本来の目的を見失ってどうすんのよ。
「あ、ほらお嬢様。おみえのようですよ」
「えっあのっ!」
 ウソ、まだ令嬢という名の『外面』の仮面被りきれてない!
 慌てて、着ているパーティードレスのスカートを直したり、髪の毛の具合を整えたり。そうこうしている間に、ガチャリと向こう側のドアが開いた。
「あっ、あの――」
「初めまして、鴨重令嬢」
 メイドさんによって開けられたドアの向こうに居た、黒いスーツの男の人の立ち姿(シルエット)。スラッとした躯体線が見えただけで、私の心臓は激しく打ち鳴っている。
 私へ深々と頭を下げる全身黒の彼。車内からだと表情までよく見えなくて、本当に若いのかどうかもわからないまま。
「お隣、しばし失礼いたします」
「はへっ、は、ハイ……」
 私が何と言う間もなく、ドアを開けていたメイドさんが彼を車内へ誘導しちゃって、人一人分の間を開けて隣に座られてしまった。ひゃああ、顔熱い。
 ドアが大きな音と共に閉まって、すると運転手さんが「それでは発車いたします」と告げる。
「いってらっしゃいませ、お嬢様」
「いってらっしゃいませ」
 窓の外のメイドさんたちにいつものようにお辞儀をされて見送られる。小さくひとつだけ向けた頷きで返事にして、すると白い高級セダン(クライスラー)は丁寧に発車した。
「さっ、さっそく、だけどっ」
「はい?」
 なんとなく迫ってくる気恥ずかしさから、結んでいた口を開けてしまう私。『令嬢』としての外面も気持ちの切り替えもそれと同時に済ませて、隣の緊張のタネであるSPさんに臨む。
「は、発車前に、五分間も私を車内で待たせるなんて。SPなら『普通』、私が着く前に車外で待っているものではなくて?」
 私は、胸の前で腕組みをして顎を上げた。
 SP(この人)とは今日この場限りとわかってはいる。わかってはいるんだけど、チクチクと嫌味を言って、本心とは裏腹に勝手に意地悪してしまう。
「そんなユルぅーい感じで、本当に私を護衛なんて出来るのですか?」
 あーもう、本当にイヤな奴を全力で気取ってしまう『ご令嬢様』の私。素直に笑顔を向けて「よろしくお願いしますわね」だとかなんとか言ってれば、ちょっとくらい桃色チャンスにでも恵まれるのかもしれないのに!
「も、申し訳、ございません」
 しおしお、と遠慮がちに頭を下げたSP()。横目でそれを確認して、そうしたらなんだか『ご令嬢さま』的に気持ちが満足しちゃった。
 そうだ、私の態度ひとつで、ちょっとくらいなら桃色チャンスに恵まれるかもしれないんだ。
「まあ、最初くらい大目に見てさしあげます」
 組んだ腕をそっとほどいて、膝の上でクロスさせて。もうイヤな『ご令嬢さま』はやめやめ! お(しと)やかさを出して、鼻歌混じりに主導権を握っていこう。
 そろりそろりとSP()へ顔を向けて、「そ、それで?」と声色を明るく柔らかくする。
「よろしければ、お名前教えてくださるかしら。いくら今日限りとはいえ、お呼びするときに不便ですもの」
「あ、ハイ。社長より命を受け、本日鴨重令嬢の護衛をさせていただきます、ケイトと申します」
 顔を上げて、私を向いたSPの『ケイト』さん。
「けっ、ケイ、ト?」
「え? は、はい」
 言われた名を口に出してみたら、パズルのピースが自動で次々に埋まっていくみたいな速度を体感した。

 どこかで見たような、黒い短髪。
 無駄のないフェイスライン。
 聴き覚えのある若い声色に、指関節の角張り方。
 ボクシングが強くて同い年だという話。
 そして極め付きは、『敬斗』というこの名前――。

「って、まさか」
 目線だけで、上から下までの行ったり来たりを何往復。(つくろ)ったはずの『ご令嬢さま』の仮面が、容赦なくボロボロと崩れてしまうのがわかる。
 首から頭の先までがキューッと熱くなる。肩が硬直して、膝がガタガタと震えて止まらない。取り繕いたい表情は、まばたきよりも速く等身大へ戻ってしまって……。
「まさかあなた、いっ、和泉くん?!」
「え? えぇまぁ。俺は和泉敬斗ですけ――」
 眉間を詰めて肯定したその言葉を途中にして、SPは私をじっと見つめたままピタリと動きを止めてしまった。
「――ちょ、え?」
 黒いサングラスの奥で目を見開いたらしいSPは、ゆっくりとそれを右手で下げて、取り払って、膝の上に置いた。そうしてあらわになった、彼の顔。その瞬間、お互いに喉の奥から絞り出されたのは「あ」に濁点が付いた、気付きのそれ。
「やっ、ぱり、あなた」
「かっ、『鴨重』って」
 歪んでいく、お互いの顔。
「和泉くんっ」
鴨重(お前)のことかよっ!」