お見合いから五日後、九月中旬の木曜日。
 二時間目が終わったあとすぐに職員室から教室へ、山積みになったノートを運んでいた私――鴨重紗良。日直の仕事だって言われてしまったら従うしかないもんね。ノートを全部重ねて持ち上げたら、顎の下までの上半身全部が隠れてしまった。クラスの人数分のはずなのに、なんか多い気がしなくもないというか。
「『とても重そうですね、お嬢様』」
 二階に上がってすぐ、左横からそんな風に声をかけられた。顔を上げなくたってわかる。これが私の片想い中の推し――和泉敬斗くんだってことくらい。
「日直の『お仕事、お疲れさまでございます』」
「なにそれ、嫌味?」
「いや? (ねぎら)い」
「労うくらいなら半分手伝ってくれない?」
 推しとの共同作業チャンス! 顔と言葉では不機嫌そうにしてるけど、頭の中は飛んで跳ねてのお祭り騒ぎなんだから。イエーイ、ハッピーチャーンス!
「あーいや、俺、これから後輩ンとこ行くから別に暇じゃあない」
「ええ? 後輩と私どっちが大事な――あ、ううん。なんでもない」
 私、またなんてことを訊こうとしているのやら。そもそも、こんなところで立ち止まってないで、さっさと持っていってしまえばいいのよ。すたすた、と歩み行く私。二階から三階への階段を一段、二段と上がっていく。
「…………」
 そろりそろりと振り返ってみる。追いかけて、来てい――
「ないッ!」
 ホントに居なくなってる! 後輩を優先したのね?! あ、いや、『約束を』優先したんだから、私が残念がることじゃあないのよ、そもそも! でも、すんごいモヤモヤする。むゥと口がへの字に曲がって、つい階段を強く踏み締めて上ってしまう。
 あの、普通ね? 護衛対象が重たいもの持ってたら、代わりになったりしない? そんな少女漫画展開あるよね? あ、ううんそんなのダメです。都合の良すぎる期待をしてはいけません。大体、私、何様なのよ。嫌な奴じゃん。鴨重紗良はなんでも独りでこなせてこそじゃん! 鴨重グループを一手に担う跡取りとして、なんでも自分でやらなくちゃでしょうよ!
「で? どこ持ってくんだよ、それ?」
「キャーア!」
 後ろから突然声をかけられて、山積みになったノートをその場に綺麗に散らかしてしまった。あーもう。ドサドサドサ、が罪悪感の塊になって私の頭の上に降ってくる。
「あーあーなにやってんだよ、お嬢様」
「けっけ、敬斗くん?! なん、なんで」
 さっきまで居なかった敬斗くんが戻ってきていた。滑り落ちたりしたノートをさっそく片っ端から集めてくれている。
「あ、これ、この前の提出したノートか。つーことは教室だな?」
「ちょ、聞いてる?」
「聞いてる聞いてる。用事済んだから、戻るついでに声かけたわけ」
 集め終わった八割を抱えて、私を見上げる敬斗くん。ぐぬ、頼もしすぎ、その顔面。
「残り拾えるか?」
「え、あ、うんっ。このくらい、別に」
 そそくさと二割を拾い上げて胸に抱える。
「ありがと、拾ってくれて。持ってくから、ここ乗せて」
「いい、別に。俺も教室戻るとこだし」
 フッ、と笑んで、敬斗くんは横に並んでくれた。ハァー、『落として上げる』とはこれね。至高ですよ、テクニック的に素晴らしい!
 真っ赤になった私は、敬斗くんにこの顔が気付かれないように「ありがとう」とボソボソ告げた。
「め、珍しいね? 後輩に用事、とか」
「そーか?」
「うん。部活入ってるわけじゃないのに、上下関係ちゃんとしてるような後輩が居たんだな、って思って」
「まぁ直接世話やいてるとかじゃねーから、後輩っていう言葉は適切じゃなかったかもしれん。正確には、年下の知り合いなだけ。漫画借りただけだし」
 まぁ、正直なんでもいいんだけど。敬斗くんは部活に入ってるわけでもないから、他学年と親しくするなんて珍しいなぁと思っただけだし。敬斗くんみたいにコミュニケーションの輪が広いと、そういう枠組みなんて軽々と越えるのかなぁ。わからないな、私には。
「ていうか。どんだけずっと俺のこと見てン『ですか、お嬢様』?」
「んなっ?!」
 粘り気のある声色になる敬斗くん。なにそれっ! そういう観点?! カアーっと赤くなって、眉が寄ってしまう。
「べっ、別にっ、ずぅーっとジロジロ、見てるわけじゃないもん!」
「へー? 俺の動向、前から気になってた?」
「全っ然気にしてないし、なってません!」
「ふぅーん? っそ」
 嘘です。めちゃくちゃ気になってるしずっとジロジロ見てます、わりと。
「じゃあ先言っとくけど、俺次の日曜予定あるからSP出来ねーから」
「えっ?」
 ついその場に立ち止まってしまった。一方で、タンタンタンと階段を上りきった敬斗くんは半身を振り返った。
「パーティーとか会食が入っても、次の日曜は俺、お前の護衛に行けねーってこと。OK?」
 まるでなんでもないように言うから、遅れてやってきたショックが胸に深く刺さる。
「そ、そうなんだ」
 確かパーティーの予定なんかなかったはず。大丈夫だよ、うん。「今後一切SPやらない」だとかを言われたわけじゃないじゃない? うん。
「わかった。もしあったら、また独りで、頑張る」
 階段を上って、敬斗くんを追い抜かして教室へ向かう。
 気にならないわけないもん。でも、気にならないって言っちゃったから、訊いたらダメなんだもん。うう、私のバカ。自分で自分の首絞めてるじゃない。
「いやいや、そんなにあっさりすんなよ。傷付くわー」
 ノートを抱えた敬斗くんがトタトタと私を追い抜かして、進行方向に立ち塞がってきた。「は、はあ?」と口をあんぐり。敬斗くんに道を塞がれているから進めない。
「なに? どうしたらいいの?」
「日曜の予定、気になんねーの?」
 聞いてほしいんだろうか。言いたくて仕方がないんだろうか。敬斗くんて、こんなに子どもっぽかったのかな。まぁ、かわいいからいいけど。
「あの、意味がよくわからないんだけど」
「はぁ? だ、だから。おま、お前が気にして、くんねーと、その、なんの意味もねーの」
 なぜか敬斗くんは顔を赤く染めている。え、日曜の予定って、そんなに照れ恥じらうことなわけ? ふふ、じゃあいいもーん。仕返しするもん。
「ボクシングなんじゃないの? それか、ご家族のご用事とか」
「はあ?」
 顔色を変えずに、わざとこうやってツーンとして横を通り過ぎる。敬斗くんは、同じ速度で追いかけてきた。
「ご家族のご用事なんてねーよ」
「じゃあボクシングなんじゃん」
「ボクシングならそう言うって」
「もうっ、ワケわかんないっ」
 教室の教卓の上に、ドンとノートを置く。
「じゃあなんなのよ!」
「だからっ、これ」
 同じようにドンとノートを置いた敬斗くんは、制服のスラックスのポケットから紙を一枚取り出して私へ差し向けた。
「これ行かねぇ? 日曜」
「え?」
 注視すると、それは『枝依アクアリウム』の入館チケットだった。
「お、俺とお前で、なんだけど」
「ふ、二人?」
「うん」
 この水族館、先月末に改築が終わってとっても綺麗になったから、密かに行きたいと思ってたの。だから驚きもひとしおで、なんだか上手く喋れなくなる。
「えと、どっちの、二人?」
「いや、普通に、その。SPとか、お嬢様じゃない方」
 え、ウソ、本当に? この前の土曜日に引き続き、夢じゃなくて現実なの?
 SPの仕事ができないのは、私と水族館に行くからだったみたい。敬斗くんの予定は、私と水族館に行くことだったみたい。
 そっと入館チケットを受け取って、両手で握って、それをじっと見つめる。
 私が断ったら、どうするつもりだったんだろう?でも正直、このくらい自信がある方がいい。それこそ私の推し、和泉敬斗くんだから。
「行く」
「ま、マジ?」
「フフッ。マジ、マジ」
 パッと顔を上げて、敬斗くんと目を合わせる。お互いに真っ赤だけど、いいよね。照れより嬉しいのが勝ってるんだもん!
「嬉しい。楽しみにしてる」
 ほにゃ、と笑顔になってしまった。ヤバい、最高にハッピーです!
 と、思っていたんだけれど。
「ヒューイ! おめでとう、お二人さん」
「ときめきだねぇー、ときめいてるねぇ!」
「公開プロポーズたぁ、熱すぎるぜ敬斗ォ!」

 私たちは失念していた。

「なんだァ、付き合ってンなら早く言ってよ」
「鴨重さぁん、よかったね!」
「おめでとう!」

 いつの間にか教室に着いていて。

「いっ、いや、違っ」
「ちょ! プロポ……あのなあ!」

 なんならここが、教室の一番前の。

「みなさぁーん! 日曜日はお邪魔しないように、こっそり枝依アクアリウムに行きましょうねぇー!」

 最も目立つところであるということを。

「はぁーいッ」