「パ――お父様っ」
「しゃ、社長っ!」
 突然呼ばれて、全身をビクゥッと跳ね上げた令嬢と、俺――和泉敬斗。姿勢をしゃんとさせ、両手をピシリとし、近付いていらっしゃる鴨重社長へグワンと腰から直角に曲げ下げる。
 ヤベー、令嬢に近付きすぎた? そうだよなぁ、「わたしもそう易々と紗良をどこかへやつるもりはない」とかさっき仰ってましたもんねぇ! とんだブーメランだぜ、チクショウ!
「あのっ、『この度は大変申し訳ございませんでした。改めて謝罪いたします』!」
 まるで叫ぶみたいに全力で謝罪。ぶち壊したのはマジで悪かったと思っているから、ここはきっちりしておかないといけない。けれど、なぜか社長は「頭を上げなさい」と穏やかに告げてきた。
「いやいや、いいんだよ、構わないさ。敬斗くんはきちんと紗良の『本心を』伝えてくれた。お陰で、いろいろ踏ん切りもついたんだよね」
 隣で鴨重紗良が「踏ん切り?」となぞる。俺も恐る恐る頭を上げていく。
「もー、毎度毎度顔を合わせれば(せがれ)の結婚相手の話でね。正直なところ辟易(へきえき)していたところだったんだ」
 敢えて『誰のこと』とは明言しないものの、社長の指している人物がさっきの見合い相手であることくらいすぐにわかる。
「あんまりにもしつこいから、これっきりにしてもらう約束で今日のこの会食だったってわけ。次言ってきたらこの際ひとつずつ契約打ち切りにしてこうかなー、と思ってたんだけど」
 う、怖っ。すんげーあっさり生死の境を漂わすこと言うな、この人。
 顔に出さないように必死に堪える俺だが、隣で鴨重紗良がどん引きしているのがなんとなくわかって、くふふふふ……笑わせないでくれよマジで。こちとら何もしなくたって腹筋痛ぇんだから。
「先方があっさり退いてくれて本当によかった。敬斗くんが入ってきたことで空気が変わって、それのお陰だよ」
「いえ。俺はなにも、別に」
 薄く笑んだ社長のその表情が、鴨重紗良にそっくりだ。なんだかくすぐったさすらおぼえて、つられて俺の口角も上がる。
「それと紗良」
「はい?」
「いつもいいように使って、すまなかったね」
「え?」
「本当なら将来的にはどこかの企業の御子息(ごしそく)と、と思っていたから、今までも何回かこういう席を設けたわけだけど」
「今日で八回目『でしてよ、お父様』」
「ま、まあ、そうだったかな」
 うお、まさかの攻撃。これには苦笑をもらした社長。しかも、思ってたよりも見合いやらされてたとは。だからあんな切羽詰まってたわけね、納得。マジで防げてよかった……ような気がする。
「けど結局どこの御子息も、紗良との年齢差がありすぎたり、そもそもわたしのアンテナにもピンと来なかったから、見合いの話はなかったことになってきたじゃないか」
「アンテナ……」
「そりゃ、そうだけど」
 第六感で選択したものが最良だったっていう人なんだな、とわかる。
「あと、『嫁げるように準備始める』だとか言ってたあれは?」
「ああ、あれはだから、一八歳になったら大人としての振る舞いを教えていこうって思ってたっていう話さ」
 ぎょっとしたような鴨重紗良の横顔。チラリと見てくるから「ほらな」の肩竦めで返答にする。
「でもね。パパにとってそんなことはどうだっていいんだ」
 一転、拳を握った社長はぐぬぬと低い声を漏らしだす。
「今回最大の衝撃は、『学校で泣いてしまうくらい紗良がこの件について悩んでいた」ってことなんだよ」
 ガシと捕まれる鴨重紗良の着物の肩。社長の表情は鬼気迫るもので、正直怖い。
「パパも紗良と同じくらいの歳からしょっちゅうお見合いさせられていたけど、当時は『美味い飯が食べられてラッキー』くらいにしか思ってなかったんだ。だから紗良も『そうなんじゃないか』って信じて疑わなかったんだよ!」
 真剣なまなざしの社長に反して、実の娘らしい呆れた顔つきになる鴨重紗良。その食い意地の割には細身だな、とボディラインをじろじろの俺。
「……そんなわけなくない?」
「そうだね! さすがにもう美味い飯で釣られるような単純なものでもないか!」
 一人で高く笑っていらっしゃるけど、そんな簡単なノリで決められちゃあ泣きたくもなるわな。ひっそりと俺一人でクスクス笑ってやり過ごそう。
「ともかく。ごめんよ紗良」
「も、もういいよ。結婚話、パパもノリノリじゃなかったってわかって安心したし」
「ノリノリなわけないだろう! 紗良を簡単に知らないところへはやったりしないよう! だから、お見合い話はもうおしまい」
「ふふっ、よかった」
「で、話を敬斗くんに戻すと」
「ぅえっ、俺っ、ですか?」
 ぐりんと話題を向けられ、俺は慌てて背筋を伸ばし直す。ぐぇ、腹が突っ張る感じがする。
「話があるから、もう少しだけわたしたちに付き合ってくれるかな?」
「え、は、はい。それはもう、ご意向のままに」
 ちらちらと視線を交わし合って、ハテナを浮かべる俺と鴨重紗良。やっぱり『社長さん』が考えることは、よくわからん。
 俺と令嬢、そして鴨重社長と三名の社長専属黒服(SP)は、その足で再びエレベーターに乗って二五階に戻ってきた。
 俺の怪我を見かねたらしい令嬢は、ビニル袋にダイス型の氷をいくつか詰めたものをフロントで貰ってきた。ったく、いいっていってんのに、頑固なヤツ。だがありがたく受け取っておいて、顔面の蒼いところにあてがいながら社長たちについていく。
「まさかまだ飯食うわけじゃないよな?」
「わかんないけど、さすがにそんなつもりはないと思う」
 社長の後方五歩の位置で鴨重紗良とコソコソ話し合ってはみたものの、向かっているのはやはりさっきの見合いをしていた『あの個室』らしい。
「私、ただでさえ今日は帯で苦しくて、食べるとか二の次なのに」
 ふぅ、と鴨重紗良の溜め息。そうそう、そうやってデケェ溜め息ついてる方がコイツらしい。
「のわりには、綺麗に『お召し上がりいただいておりましたが?』」
「なんでそういうとこばっかり見てるのよっ」
「真後ろに立ってりゃ見え『てしまうんです』ぅ」
「お嬢様、ご入室くださいませ」
 黒服の一人が振り返って鴨重紗良へ促す。ていうかそれ俺の役目じゃん。ああー、また失敗した。なんなんだよ俺、なにに夢中になってんだよ。全然周り見えてねーじゃん。
 ひととおり後悔している俺をよそに、押し開けられた観音開きのその扉。社長が先立って入室した後、視界が開けて、室内を把握して……って、あれ? テーブルセットだのの雰囲気が、ガラッと一転している。別の部屋に入った……わけでもなさそうだ。窓の外の景色は変わってない。へー、スゲーなぁ、鴨重グループ。
 ぼんやりと感心していたのも束の間。
「おー、敬斗ォー」
 そうして俺へ手を振るマヌケな声の男が一人、『お行儀よく』着席しているのが見えた。ソイツにぎょっとした俺は、鴨重紗良の隣でザリザリと数歩、後ずさり。ついでに貰ってきた氷袋をドサリ落としてしまう。
「な、なんっ、なんで」
「オメーめちゃめちゃビシッとしたの着せてもらってたんじゃねーか! ほれ、早くここ座れ」
 さっきと一転してにこやかなのが、逆に不気味なんだが。
「け、敬斗くん、どなた?」
 オロオロと細く訊ねられた俺は、同じくらい小さな声でゆらゆらと告げる。
「ウチの親父『で、ございます。お嬢様』」