俺――和泉敬斗の自宅兼ボクシングジムから鴨重邸までは、実はそんなに遠くはない。走れば五分程度で着いてしまえる近所だったりする。だから、試合を終えてヨロヨロとリングから降りて、相手選手たちにひととおりの謝辞と感謝を告げた後、ジャージを適当に穿いたり羽織ったりして、流れるように鴨重邸へ急いだ。
「いかがなさいましたか、和泉さま」
 スマートフォンの時計で一二時三六分を目視確認した俺は、地平線のかなたまで響き渡るかのような鴨重邸のチャイムをディンゴォーンと鳴らした。
「あのっ、Sっ、エスピッ、ハア、SPの着替えっ、さしてぐだざいっ」
 インターホンへすがりつくように頼む俺。正直クソカッコ悪い。こんなのアイツに見せられるかよ。居ないってわかってっから出来るんであって。
 それからものの一分程度で、一台の白い高級セダン(クライスラー)が門扉前に到着。ぎょっとしていたら、令嬢専属運転手のいつもの女性が「ご乗車ください」と告げてきた。
「会場までお送りいたします。車中でお召し替えくださいませ」
「車、車中で?」
「窓ガラスは、スイッチ切り換えで黒色(スモーク)になるものを採用しております。和泉さまの生着替えがよそさまに(さら)される心配はございません」
「ス、スゲー……あ、いや、俺の着替えが外から丸見えとかホントどうでもいいっつーか、大丈夫っつーか」
「とにかく、時間を有効に使いましょう。さ、時間がございません。お早く」
 マジで気が利くぜ、頭いいな。さすが鴨重家専属の人員。
 乗り込んだ後部座席には、いつものスーツはじめいつものセットが用意されてあった。綺麗なこれをさっそく汗みどろで汚してしまうのはマジで心が痛むところだが、四の五の言っていられない。言われたとおり、車中で着替えを進めていく。
 ぐぬ、痛くて腕が上がらん。つーか、思ったより顔に怪我してる。指先も上手く使えなくて、なんかいつもよりネクタイが雑な気がするんだが。
 アイツ怒るかな、急に俺が乗り込んでったら。「なんで来たの?」とか「独りで出来るって言ったのに」とか。
 いや、今更だな。アイツにとって余計なことだろうと、構いやしねぇ。「要らねぇって言われても、気の済むまで護衛する」って、ボールを頭にぶつけたときのアイツに宣誓したはずだっただろう。
「和泉さま」
「えっ、は、はい」
 運転席から呼ばれて、慌てて現実へ引き戻る。
「本日の会場は二五階。貸し切ったイタリアンレストランのいち個室を使用しておられます」
 うげ、やっぱり規模が違うぜ。なるほど、と相槌(あいづち)を返す。
「くれぐれも、お嬢様を会場から連れ去るようなことはお止めくださいませ」
「へ?」
 げ、バレてる。なんで?! しかし運転手の彼女は、まっすぐ前を向いたまま淡々と告げていく。
「そういった行動は、社の信用問題に関わります。お見合い相手様は、社の取引先でございますし。今後の業務に支障をきたすおそれが」
「ヒッ、は、ハイ」
「それに、和泉さまを会場へ手引きしたメイド三名、執事一名、そして(わたくし)の首も飛ぶでしょう」
「くっ、クビっ、がっ?」
 おいおいおい、どのみちむっちゃ怒られるやつじゃねーか。いや、怒られるだけじゃ済まねぇやつだ。全身をゾワゾワとさせ、するとピシリと背筋が伸びた。
「ですので。どうか会場内に留まったまま、なにかしらの手助けをお嬢様へ施しくださいませ」
 優しい声色の、優しくない運転手の言葉。情けない「は、はい」を言ったら、車がホテル・ブルーダッキーの出入口前で停まった。
「さあ。いってらっしゃいませ、和泉さま」
 無茶振りだぜ、こんなの。いまから作戦練り直せるわけねぇよ! だのと悠長なことを言っていられる状況でもない。
 ひとまず俺は、ホテルの正面入口から堂々と入ってやった。フロントを横目に駆け抜けて、ゴージャスなエレベーターへ転がり込んで、『25』と『閉』のボタンを高速連打。
「うー……、マジでどうする」
 連れ去りは使えねぇとなると、やっぱり社長に一石投じるくらいしか方法はない。社長に『娘を嫁に出したくない』と思わせないといけないわけだから、社長に耳打ちでなにかを言ってやるのはどうだろうか。
 でも何て言うんだ。何を言えばいい?「(わたくし)の方が、お相手様よりもお嬢様に好意があるので、お見合いを中止願います」? そんなアホな声かけあるかい! とんだ火傷発言だってぇの!
「んぬあああ!」
 チクショウ! 頭脳戦とか無理すぎんだろ、俺には! わからん、なんも思いつかねぇー!
「だあー、あの頭のキレそうな運転手さんに指示仰げばよかったぁー!」
 ポンピーン。
 うげ、もう着いた。いや、早く着いてほしかったけれども、なんも作戦出来てねーんだよ! どうすんだマジで!
 ひとまずエレベーターをダッシュで降りて、レストランの入口が見えた。そこで二人から声の制止を受けたけど、ゴメンナサイ。静止の声をフル無視して突っ切っていく。
 個室がいくつか見えるけど、扉がしまってるのはひとつしかなかった。そこをめがけて、なかばタックルのように押し開ける。
 グググ、ズズズと観音開きで扉が開いた。荒れた呼吸そのままに「失礼、いたしますっ」と一声。顔を上げて辺りを見渡せば、ビンゴ。見合い会場大正解。
「……敬斗くん」
 呼ばれた気がして、左奥の席にいた鴨重紗良を一瞥(いちべつ)。よかった、泣いてないな。
 三歩進んで、扉が背後でゴウン、と閉まった途端に現実に引き戻された。と、とにかくここは、名乗るとこから始めるべきか。
「か、会食のさなか、割り入るご無礼をお許しください。鴨重令嬢の専属SP、敬斗と、申しますっ」
 肩の上下を抑え、両手を身の真横にピタリと付け、背筋を伸ばし一礼。九〇度の角度で曲げてると実は腹が痛いんだが、ええいそんなの我慢しろ。
「敬斗くん。いまは困るよ、ここに来られちゃ。キミも予定どおりにしてくれないと」
 やっぱり社長を不機嫌にさせちまったか。まぁ仕方がない。怒られるのは俺だけでいいように、なんとか社長へ言葉をかけなければ。
 頭を上げて、キッとした真顔を作り、向かって左側に座る鴨重社長へ視線を刺す。
「申し訳ございません、社長。しかし取り急ぎ言伝(ことづて)がございましたので馳せ参上いたしました」
「言伝?」
 社長の不機嫌そうな低い声。俺の言動に眉を寄せているんだろうことがわかる。鴨の羽(深い青緑)色の毛足の短いカーペット上をずんずんと進み、社長の右耳へ「失礼いたします」と近付いた。
「実はこのお見合い、お嬢様は本当にお望みではございません。先日悲しみにくれ、学校でも涙されておりました。お聞き及びでしょうか?」
「学校で?」
「然様にございます」
 コソコソは続く。
「実はまことに勝手ながら、(わたくし)はお嬢様の御身を学校内でもお守りしております。お傍に付き従っていた折、本日のご予定をお聞きいたしましたが、どうやらお相手様にご期待を持たせてしまうのは、とてもお辛いとのことでして」
 いくらなんでも無理があるかな。いや、もう少し続けてみよう。
「フム、それは確かにわたしもよくわかるが」
 キタ! よし、もう少し攻める。
「お嬢様より『内密に』とのことでしたので、本当ならこのまま黙っているつもりでしたが……」
「なんだね?」
「お嬢様は、社長の跡目を継いだり、社長と共に会社経営に携わることを、幼い頃より夢見ていたと。そうこぼされておりました」
「それは……」
「ですから今回のお見合いによって、その夢が断絶されるかもしれない恐怖や絶望は、お嬢様にとってはかりしれないほどのダメージだったのでございます。しかし」
 呼吸を整えて、再び臨む。
「お嬢様はお優しいお方でございます。お父様である社長のお心内やお考えを(かんが)み、しかしお相手を傷付けやしないかとその胸の内を傷めながらも、このように出席するご決断を下したわけでございます」
 俺、もしかして嘘とかデマカセ上手いの? 知らなかったんだけど。つーか、なにこの俺の語ったストーリー。スゲー完成度高くね? 言っててビビるわ。むっちゃ説得されそう。
「社長。何度も申し上げますが、(わたくし)はあなた様よりお嬢様の御身をお守りする役目を(おお)せつかっております。ですから、やはりお嬢様の心身の安寧(あんねい)を優先すべきかと勝手な判断をし、ここに馳せ参じました。お嬢様が傷付いていらっしゃるのを黙って見ていることは出来ませんでした」
 一歩下がって、深々と頭を下げる。
「結果的に会食を中断させてしまったご無礼、深くお詫び申し上げます」
「うーん、なるほど」
 社長は、ボスンと背もたれに身を埋め、天を仰ぎながら三〇秒ほど思考を巡らせていた。
 令嬢の不安そうなあの目。クフっ、よかった。いつもどおりじゃね? つーかなんで今日は青なんか着てんだよ。お前に似合うのは、ピンクとか赤とかの花みたいな色だろうが。これ以上俺の好きな色にホイホイ染まってくれるな。
「そう、か。よし」
 社長の考えがまとまったらしい。令嬢を一瞥(いちべつ)してから、俺をくるりと見上げてきた。
「いやいや敬斗くん。キミの忠誠心には感心だよ。まさか日常的にとはね」
 何とも言えず、頭をただ下げる俺。すると、チョイチョイと人指し指で合図される。耳を貸せってことかな。
「今日はもうこのまま進めて、一応まるくおさめるけれど、わたしもそう易々と紗良をどこかへやつるもりはないから、安心しなさい」
 おお、マジか! さすが鴨重紗良の親父さん! 俺の作り話に説得されたわけじゃないかもしれんけど、よかった。
「ありがとうございます」
 深々と頭を下げ直した俺は、ようやくほっと胸を撫で下ろした。
 その後は令嬢の後方で、いつものSPとして立つことを許された。ときたまアイツはこっちを見てくるけど、「もう安心してドルチェ(デザート)に集中しとけ」の気持ちでうっすら笑って見せる。
 走ってよかった。どっちの勝負にも、勝ててよかった。あとはもうどんだけ怒られたって、強い気持ちでいられそうだ。